蓮如
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蓮如(れんにょ、応永22年(1415年) - 明応8年3月25日(1499年5月5日))は室町時代の僧。本願寺第8世。諱(いみな)は兼寿、号は信証院。おくりなは慧燈大師。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。
異宗や他派に押されていた浄土真宗本願寺を中興し、現在の礎を築いた。
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[編集] 生涯
- 京都東山の本願寺で生まれる。父は本願寺第7世存如、母は、存如の母に給仕した女性と伝えられている。
- 応永27年(1420年) 蓮如が6歳時、存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退出しその後行方知れず。蓮如幼年期の本願寺は、仏光寺の隆盛に比し、不振の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
- 永享3年(1431年) 15歳。青蓮院で得度し、中納言広橋兼郷の猶子となる。
- その後、本願寺と姻戚関係にあった興福寺大乗院経覚(母方が大谷家(本願寺)の出とされ、父・存如の従兄弟と推定されている)について修学。父存如を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。永享6年(1434年)5月12日の識語をもつ『浄土文類聚鈔 』が、蓮如の書写になる現存最古のもの。
- 文安4年(1447年) 存如とともに関東を訪ねる。
- 宝徳元年(1449年) 存如と北国へ布教。
- 長禄元年(1457年) 存如が没し、同年本願寺の留主職に就いた。継職にあたり異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父宣祐(如乗)の主張により蓮如の就任が決定する。なお、歴代住職が後継者にあてた譲状が存如筆のものだけ現存しないとされる(蓮如実子の実悟は譲状は存在したと主張しているが確証はない)事から宣祐(如乗)による一種のクーデター説もある。この時、応玄と継母は怒りの余り家財のほとんどを持ち出してしまったと伝えられる。
- このころの本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い青蓮院の一末寺に転落していた。宗派に対しても青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺から激しく弾圧がくわえられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
- 寛正6年(1465年)1月8日 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌9日 同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却。同年3月21日、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。更に蓮如とは親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁を通告した(寛正の法難)。
- 文正2年(1467年)3月延暦寺と和議、蓮如の隠居と長男順如の廃嫡が盛り込まれた。
- 応仁2年(1468年) 北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。
- 応仁3年(1469年) 三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。
- 文明3年(1471年)4月上旬 越前吉崎に赴き、7月下旬同所に吉崎御坊を建立。吉崎は一気に賑わい、信者は奥羽からも集まった。
- 文明6年(1474年)加賀国守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(ただし、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。
- 文明7年(1475年)8月21日 吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。
- 文明10年(1478年) 山科に坊舎の造営を開始。
- 文明14年(1482年) 山科本願寺の落成。
- 文明18年(1486年) 紀伊に下向。のちの鷺森別院の基礎ができる。
- 長享2年(1488年) 5月 加賀の一向一揆。 6月 守護の富樫政親を滅ぼす。蓮如は成敗の御書(お叱りの御文)を送って一揆を諌めた。
- 延徳元年(1489年) 寺務を子の実如にゆずり、山科南殿に隠居。
- 明応5年(1496年) 大坂石山の地に石山御坊を建立。後の石山本願寺。
- 明応8年(1499年)2月20日 死に際し、山科本願寺に帰参。
- 同年3月20日 下間蓮崇を許す。
- 同年3月25日 山科にて没。
生涯に4人の妻と死別し、5人の妻を娶る。子は13男14女。死の直前まで、公私共に多忙を極めた。
[編集] 布教
蓮如の布教は、教義を消息(手紙)の形で分かりやすく説いた『御文(おふみ)』(『御文章(ごぶんしょう)』とも)を中心に行なわれた。のちに蓮如の孫円如がこれを収集して五帖80通(『五帖御文』)にまとめた(これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている)。なお、御文という言い方は真宗大谷派(東本願寺)によるものであり、御文章という言い方は浄土真宗本願寺派(西本願寺)によるものである。
文明5年(1473年)3月、吉崎で親鸞の『正信念仏偈 (しょうしんねんぶつげ)』『三帖和讃 』を開版し、門徒たちの朝晩の勤行に用いるよう制定した。また、六字名号を生前多く書いて、門徒に与えた。ほかに『正信偈証註釈 』『正信偈大意 』などがある。
その他、蓮如の死後に弟子たちが蓮如の言行録を写し継いだ書物として『蓮如上人御一代記聞書 』(『蓮如上人御一代聞書』とも、全316箇条)が残されている。
[編集] 妻子
- 第一夫人:如了(伊勢貞房の娘)(1424-1455)
- 第二夫人:蓮祐(伊勢貞房の娘・如了妹)(1438-1470)
- 第三夫人:如勝(1448-1478)
- 十一女:妙勝(勝林坊勝恵妾)(1477-1500)
- 第四夫人:宗如(?-1484)
- 十二女:蓮周(蓮超室)(姉小路基綱の娘)(1482-1503)
- 八男:蓮芸(1484-1523)
- 第五夫人:蓮能(畠山政栄の娘)(1465-1518)
- 十三女:妙祐(勝林坊勝恵室)(1487-1512)
- 九男:実賢(1490-1523)
- 十男:実悟(1492-1583)
- 十一男:実順(1494-1518)
- 十二男:実孝(1495-1553)
- 十四女:妙宗(実乗光恵室)(1497-1518)
- 十三男:実従(1498-1546)
[編集] 蓮如を主題にした小説
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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