韋那磐鍬
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韋那磐鍬(いなのいわすき、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物である。名は石次(いわつぎ)とも書く。旧仮名遣いでの読みはそれぞれ「ゐなのいはすき」、「いはつぎ」。姓(カバネ)は公。672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のために東国から兵力を動員する使者になったが、敵に阻まれて逃げ、任務に失敗した。
韋那氏は宣化天皇の皇子・上殖葉皇子(一説に火焔皇子)を祖とする皇別氏族で、摂津国河辺郡為奈郷に拠点を置いていた。
壬申の年(672年)の6月下旬に大海人皇子(天武天皇)が挙兵すると、大友皇子を戴く近江宮の朝廷は、諸方に兵を興すよう命じる使者を派遣した。東国には韋那磐鍬、書薬、忍坂大摩侶が遣わされた。使者の通過点にあたる美濃国は大海人皇子がまっさきに押さえたところで、近江国との境にある不破はその兵力で封鎖されていた。磐鍬は、6月26日夜に不破に近づいたとき、山中に敵兵が潜んでいるのではないかと考えて、一行から独りだけ遅れて進んだ。はたして伏兵があって、書薬らの後ろを遮断した。磐鍬はこれを見て逃げかえり、書薬と忍坂大摩侶は捕らえられた。
『日本書紀』の上記の箇所に、『釈日本紀』は調淡海や安斗智徳の日記を典拠に注記して、「石次は兵が起こるのを見て逃げかえった」と記す。磐鍬が石次とも書かれたことがわかる。