近江宮
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近江大津宮(おうみのおおつのみや)は、7世紀後半の天智天皇が営んだ宮。近江宮(おうみのみや)とも大津宮(おおつのみや)とも呼称される。滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされている。
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[編集] 概要
[編集] 背景
660年、百済が新羅と唐に攻められて亡んだ。倭国(後の日本)にとって百済は同盟国であり、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。
しかし、663年の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の山城や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。
[編集] 遷都
以上の状況下で、667年旧暦3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(668年)1月、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。
この遷都の理由はよく判っていない。国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。また、大津を遷都先に選んだ理由については、大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いためだ、とする説がある。外国軍が瀬戸内海を東上して畿内へ上陸した場合、最も逃げやすい土地が大津ということであろう。
なお、日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。(当時は政治に不満がある時、宮殿へ放火する風習があったと推測されている。)
[編集] 近江京
日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はなく、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。「近江京」とは、「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。明治時代になり、歴史学者の喜田貞吉が、条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という用語を創造した。以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いているが、現在では、条坊制の存在を否定する研究者までが「大津京」を用い、その概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている。もはや「大津京」などという用語は用いるべきではない。JRの西大津駅を大津京駅に改名しようとする動きがあるが、歴史的には存在しない「大津京」を喧伝することで、歴史の誤解を生じ、捏造につながるおそれがある。
[編集] 滅亡
671年、天智天皇が没すると、天皇の子の大友皇子(弘文天皇)が近江大津宮で跡を嗣いだ。これに不満な大海人皇子(後の天武天皇)は672年6月に吉野から東方へ脱出し、美濃国を拠点に軍兵を徴発した上で近江大津宮へ進軍し、同年7月、大友側に決戦を挑んだ。これが壬申の乱である。
大友側は運悪く敗れ、勝った大海人皇子は飛鳥に飛鳥浄御原宮を造営した。近江大津宮は僅5年余で亡んだ事になる。万葉集には、「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」という柿本人麻呂が、滅亡後の近江大津宮へ訪れ、往事を偲んだ歌が残されている。跡地はその後、「古津(近江の古い港の意味)」と呼ばれるようになるが、平安京遷都直後の桓武天皇(天智天皇の曾孫)の詔(延暦13年11月8日((ユリウス暦)794年12月4日))によって大津の呼び名に復された。
[編集] 近江朝
天智天皇が近江大津宮に都を置いた西暦667年から、大友皇子(弘文天皇)が西暦672年の壬申の乱で滅亡するまでの期間を近江朝(おうみちょう)と言う。名称は、近江大津宮に都が置かれたことに由来する。ほぼ天智天皇の治世と重なることから天智朝とも呼ばれる事がある。
[編集] 関連項目
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