風早八十二
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風早 八十二(かざはや やそじ、1899年8月10日 (戸籍上は8月24日)-1989年6月18日)は、大正から昭和期の日本の刑事法、社会政策の学者であり、衆議院議員(1949年1月-1952年7月)、弁護士(登録は1949年12月8日)。岡山県出身。日本の刑事法学において、罪刑法定原則(罪刑法定主義)復活の重要性をいち早く唱えた。ベッカリーアの不朽の名著『犯罪と刑罰』の完訳を成し遂げたことは有名(単独翻訳は1929年出版の刀江書院版。のちの岩波文庫版(1959年改版)は、当時の妻・風早二葉との共訳)。
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[編集] 略歴(戦前)
- 日本における新派刑法学(近代派)の巨頭・牧野英一の刑法研究室(東京帝国大学法学部)の助手になる(1922年-1924年3月)も、師説から離れ、日本における、いわゆるマルクス主義法学の先駆者の一人となる。
- 1924年から2年間、刑法・刑事学の研究のためにフランス・ドイツ・イタリア・イギリスに留学。帰国後、九州帝国大学の助教授に就任(1926年11月)。1927年4月、九州帝国大学の初代刑法・刑事訴訟法講座担当の教授に就任(同年12月に休職)。
- 1930年8月、現代法学全集(末弘厳太郎監修)の第30巻に掲載の論文「治安維持法」が発売禁止となり、当時在職していた中央大学(刑法)・明治大学(刑法)・日本大学(民法)・武蔵高校(現・武蔵大学、法学通論)・横浜専門(現・神奈川大学、刑法)から一斉に追放される(以後、敗戦まで、法学者としての言論を強権的に封じられる)。
- 同年9月には、日本共産党シンパを理由に検挙され、50日間検束される。このころより、経済・財政の研究に専念する。
- 1932年12月、野呂栄太郎らのすすめで日本共産党に入党。以後非合法活動に入り、2度にわたり、治安維持法違反で検挙される。
[編集] 略歴(戦後)
- 敗戦後は、細川嘉六らとともに社会科学研究所の創立(1945年)に関わったのを皮切りに、民主主義科学者協会(民科)の創立への参加(1946年)、第1回日本学術会議会員に当選(1948年)、衆議院議員に当選、弁護士登録など、その活動を再び活発化させた。
- それと平行して、戦前の苦い経験から、治安刑法研究に関する諸論稿の発表や憲法擁護の活動を展開した。
- 労作「牧野法学への総批判(試論)1-21・完」法律時報49巻8号-52巻2号(1977年-1980年、不定期連載)は、膨大な著作を残した牧野英一の法学を理解するためには必読の論稿といえよう。ただし、実質的には未完で終わっており、そのことが惜しまれる。
[編集] 主な著作
- アーノルド『ニヒリズム研究』(大鐙閣、1922年)(翻訳、風間徹二の名で)
- 『タルドの社会学原理』(岩波書店、1923年)(翻訳)
- ガブリエル・タルド『模倣の法則』(而立社、1924年)(翻訳)
- ベッカリーア『犯罪と刑罰-封建的刑罰制度の批判-』(刀江書院、1929年)(翻訳)
- 現代法学全集第30巻『治安維持法』(日本評論社、1930年)※発禁(全3万部は押収焼却処分)
- 日本資本主義発達史講座第1巻『財政史』(岩波書店、1932年)
- 日本資本主義発達史講座第7巻『鉱山業の発達』(岩波書店、1933年)(丸山一郎の名で)
- ピアトニツキー『ドイツ・ファシズム論』(叢文閣、1936年)(翻訳、吉田栄一の名で)
- 『日本財政論』(三笠書房、1937年)
- 『日本社会政策史』(日本評論社、1937年)
- 『労働の理論と政策』(時潮社、1938年)
- ベッカリーア『犯罪と刑罰』(岩波文庫、1938年)(翻訳)
- 『全国民事慣例類集』(日本評論社、1944年)
- 『日本の労働災害』(伊藤書店、1948年)
- 『政治犯罪の諸問題』(研進社、1948年)
- 『日本社会政策の理論』(時潮社、1949年)
- 『日本社会政策史』上・下(青木書店、1951年)
- ベッカリーア『犯罪と刑罰』(岩波文庫、1959年)(改版、風早二葉との共訳)
- 『憲法裁判-恵庭事件と自衛隊-』(新日本出版社、1967年)
- 『治安維持法五十年-市民的政治的自由のために-』(合同出版、1976年)
- 『刑法改悪』(新日本出版社、1976年)(監修)
- 『特高警察黒書』(新日本出版社、1977年)(共編)
- 『国民のための司法 共同研究』(新日本出版社、1983年)(共著)