飯田直景
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飯田 直景(いいだ なおかげ 、1565年(永禄8年) ~ 1632年10月31日(寛永9年9月18日))は、山城国、あるいは大和国の人。父は飯田直澄。幼名才八、久次郎。通称の覚兵衛(角兵衛)で有名。名は基久、重氏とも。日本槍柱七本の一人。
若い頃から加藤清正に仕え、森本儀太夫、庄林隼人と並んで加藤家三傑と呼ばれる重臣となった。武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。賤ヶ岳の合戦においても清正の先鋒として活躍した。後に朝鮮出兵の際には森本儀太夫と共に亀甲車なる装甲車を作り、普州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。この功績によって豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたというが、書状などでは「角」兵衛のままである。
土木普請も得意とし、清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。名古屋城普請や江戸城普請にも奉行として参加した。
清正が没すると、子の加藤忠広に仕えたが、忠広改易後、京都にて隠棲し没した。
[編集] 飯田直景の登場する作品
小説
司馬遼太郎:『覚兵衛物語』(新潮文庫・『俺は権現』(ISBN 4-06-131806-3)収録)。