馮国璋
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馮国璋(ふうこくしょう(ひょうこくしょう)、字は華甫、1859年1月7日(咸豊8年12月) - 1919年12月28日(民国8年)は直隷河間(現在の河北省河間市)の人で清末民国初の軍人・政治家。袁世凱の部将であり後に北洋政府の総統になる。
北洋武備学堂を卒業して歩兵学堂の監督官になった。1903年に錬兵所ができると軍学司の正使に任じられる。辛亥革命が起こると、北洋軍を率いて武昌蜂起の鎮圧に向かった。1913年に袁世凱に対する反乱が南方で起こると、軍を進めて南京に進攻して鎮圧している。
1916年に袁世凱が亡くなると、馮国璋は中華民国の副総統に選ばれる。翌年、袁世凱の後を継いで大総統になっていた黎元洪と国務総理の段祺瑞の政争(府院の争い)が起こり、7月の張勲復辟で黎元洪は大総統から引きずり下ろされると、馮国璋が代理総統に選ばれる。
ここに至って北洋軍閥は直隷派(馮国璋)・安徽派(段祺瑞)・奉天派(張作霖)に分かれて政争を繰り広げる。馮国璋は直隷派の首魁として湖北督軍王占元や江西督軍李純と組んで、北洋政府の中心となっていた安徽派の段祺瑞に対抗した。1917年9月、孫文が広東軍政府を組織して事実上中華民国が分裂状態になると、南征による武力統一を主張する段祺瑞に対抗して和平統一を主張した。だが奉天派と連合した段祺瑞は南征を強行、加えて新国会での安徽派の多数派工作によって1918年馮国璋政権は瓦解する。
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