段祺瑞
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段祺瑞(だんきずい、1865年-1936年11月2日)は、中国の清末期から中華民国にかけての軍人・政治家。
[編集] 略歴
李鴻章と同じ出身地であり、彼の祖父も淮軍の将校であり、これが縁でエリート軍人の道を進むこととなった。天津の北洋武備学堂を卒業する。1889年、ドイツに留学して軍事学を学び、近代の軍事についての知識を身に着けた。1895年、清末期に実力者となった袁世凱の新建陸軍に入り、軍の近代化を担った。1901年、袁世凱が直隷総督兼北洋大臣となって北洋軍を編成すると続けてその幕下に入り、馮国璋・王士珍とともに「北洋の三傑」と称された。特に袁の段への信頼は厚く、1909年に袁が一時失脚した際には、彼の北京の私邸をゆだねられている。1911年の辛亥革命のときには、第二軍軍統兼湖広総督に任命されて武漢三鎮で革命軍と戦ったが、理由をつけて退き、その後は袁世凱の内意を受けて多くの将校とともに清朝最後の皇帝・宣統帝に退位と共和制の実行を迫っている。その後、袁世凱が中華民国の大総統になると、陸軍総長となって袁世凱を助けた。しかし三傑のうち馮が江南に転出し、王が実際の兵権をあまり握らない役職に就く中、中央で段の保有する軍事力は北洋軍の中でも絶大なものとなった。こうした状況のため袁やとりわけ袁の取り巻きは段を警戒するようになり、二人に間隙が生まれた。へりくだることを知る馮などに比べて段はプライドが高く、両者の対立が一層こじれるようになったという指摘もある。こうした暗闘を嫌ってか段は一時引退するが、袁によってすぐに復帰している。ただし1915年、袁世凱が皇帝として即位しようとしたことに対しては、猛反対して袁の野望を頓挫させる大きな理由となった。
1916年、袁世凱が死去すると、国務総理に就任して北京政府の事実上の指導者となった。段祺瑞は日本との関係修繕に務め、西原借款などを積極的に導入した。しかし1920年、安直戦争に敗れて下野している。
1924年、張作霖の支持を受けて北京における臨時政府の執政に就任。以後は反日運動を行なう学生らを弾圧するなど(三・一八虐殺事件)したが、これが原因で1926年、政府内から反発を受けて再び下野を余儀なくされた。その後、蒋介石に招聘されて上海に移っている。そして1936年、同地で72歳の生涯を終えた。
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