高嶋仁
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高嶋 仁(たかしま ひとし、1946年5月30日 - )は智弁学園和歌山高等学校野球部監督。長崎県生まれ。
長崎海星高等学校時代には、投手兼外野手として1963、1964年の全国高等学校野球選手権大会に出場。1970年に日本体育大学を卒業。智弁学園のコーチを経て、1972年に同校監督に就任。1980年から智弁和歌山へ転任、監督に就いた。1994年の選抜高校野球と1997年、2000年の全国高校野球選手権で智弁和歌山を優勝に導いた。1996年、2000年の選抜と2002年選手権は準優勝。2006年の全国高校野球選手権では中村順司(PL学園)に次ぐ監督通算50勝および史上初の夏30勝を記録し、ベスト4に導いている。
高校野球界において中村、木内幸男、上甲正典、蔦文也、馬淵史郎、渡辺元智らと並ぶ「名将」と呼ばれている。高嶋の野球のモットーは「常に全力を出し切る」である。甲子園では、試合中ずっとベンチの前で仁王立ちしていることが知られている。
全国制覇を何度も果たす反面、早い時期でコロッと負けてしまうこともある。2000年夏の全国制覇の翌年は、夏の和歌山県大会1回戦で敗れ去った。これは指導方針として和歌山県大会直前に遠征を含めたオーバーワークスケジュールを意図的に組んでいるからである(夏が進むに連れて、体を楽に感じさせるようにするため)。そのため、夏の県大会序盤では苦戦を強いられるケースが多い。また2005年の全国高校野球選手権大会では、初戦で青森山田高等学校に5対7で敗れ、1996年以来となる同大会初戦敗退となった。しかし、前述の通り翌夏すぐにベスト4まで進出し汚名を濯いだ。
また、長崎日大高等学校野球部総監督の的野和男は高嶋の高校時代に海星のコーチをつとめていたため師弟関係にあり、対決は高嶋が智弁和歌山を率い2000年夏の甲子園で優勝した後の秋の国体で実現した(試合結果は5-16(大会規定によりコールド無し)と的野率いる長崎日大に軍配があがった。2003年の夏には甲子園3回戦で再戦する可能性があったがこの時は両チームともに3回戦までに揃って姿を消し師弟対決は実現しなかった)。高校時代の師弟が国体で対戦したケースはこれが唯一である。
[編集] 少数精鋭の理由
高嶋率いる智弁和歌山硬式野球部は、全国屈指の名門校でありながらも部員は1学年10人ずつの計30人体制を毎年守っており、他県からの留学生も1学年2人までに制限している。
これについては、チームが強くてもその大半が上級生だと新チームになってチームが弱体化するのを防ぐ為というメリットが強調されがちだが、実際は部員が多いと指導者自身が全員に目をかけきれず、部員内でレギュラーと非レギュラー間、上級生と下級生などといった強力な派閥が形成されて、何かとトラブルの危険が増えてしまう事が最大の要因とされる。他にも、最上級生(3年生)になった時に選手が全員ベンチに入れるように、との考えもある。また、野球留学生の制限については、県代表である以上は地域の理解が必要であり、甲子園に出場した場合に地域代表として応援してもらうために必要である事などが理由として挙げられている。また、合宿所(寮)はなく、全員が自宅からの通学(県外組などは下宿先から)であり、こうした点にもトラブルの危険を取り除こうとする配慮が行われているとされる。
もちろん、こうした少数精鋭のやり方を「名門校で野球をしたいという選手達の気持ちを踏みにじっている」と批判する人達もいないわけではない。しかし、高校野球は学校教育の一環である以上は人間形成を第一に考える必要があり、指導者は野球の指導だけに専念できるような、サッカーのユースチームのような形態とは本質的に異なるといえる面もある。指導者自身が野球を通じての人間形成を掲げながらも、部内で不祥事が起こって処分されてしまうケースも存在する。そうした事を考えると、トラブルの原因を最初のうちに取り除こうという高嶋のこの方針にも説得力がある。
[編集] 甲子園での成績
- 智弁学園:出場3回・7勝3敗(春:出場2回・5勝2敗/夏:出場1回・2勝1敗)
- 智弁和歌山:出場21回・44勝18敗・優勝3回・準優勝3回(春:出場7回・16勝6敗・優勝1回・準優勝2回/夏:出場13回・28勝12敗・優勝2回・準優勝1回)
- 通算:出場24回・51勝21敗(勝利数は2006年夏現在、歴代2位)・優勝3回・準優勝3回