高畠藩
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高畠藩(たかはたはん)は、出羽国置賜郡(現在の山形県東置賜郡高畠町)に存在した藩。
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[編集] 藩史
藩主家は織田氏である。織田氏は言うまでもなく戦国時代、あまりにも有名な覇王・織田信長によって天下統一も目前にまで迫っていたが、天正10年(1582年)6月2日に信長が本能寺の変のために死去すると、織田氏は急速に衰退して天下の表舞台から名を消してしまった。信長の嫡流は長男・織田信忠の家系が継いでいたが、信長の嫡孫である織田秀信は関ヶ原の戦いで西軍に与して岐阜城攻防戦で敗れたため、改易されてしまい、断絶してしまった。代わって信長の次男・織田信雄の系統が信長の嫡流となり、上野国小幡藩において2万石を領することとなる。このとき、特に信長以来の名族であるという格式を幕府から重んじられて、国持大名格や網代の輿、爪折の傘を用いる特権を与えられている。
ところが、織田信邦の代である明和4年(1767年)8月、山県大弐事件に連座してしまったため、信邦は幕命により強制隠居の上、蟄居を命じられてしまった。その上で家督は弟の織田信浮が相続し、小幡から高畠への移封を命じられたのである。なお、このときにそれまでの特権も全て剥奪された。さらに悪いときに悪いことは続くもので、天明の大飢饉で藩財政が悪化し、家臣団ですら食うに困って織田家から辞した者も少なくなく、藩主は小幡への復帰を嘆願するほどであったと言われている。
第3代藩主・織田信美は所領の大部分が天童を中心とした村山郡に集中していることを考慮して、居館を高畠陣屋から天童に移そうとした。文政11年(1828年)5月に幕府からもそれを許され、信美は天保元年(1830年)に陣屋を天童に移した。このため、以後は天童藩となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 織田(おだ)家
2万石。外様。