鵜来型海防艦
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鵜来型海防艦(うくるがたかいぼうかん)は大日本帝国海軍が第二次世界大戦において運用した海防艦。主に船団護衛に用いられた。基本計画番号はE20b。日振型海防艦の準同型艦である。日振型からの振り替えにより、1944年から1945年にかけて同型艦20隻が就役している。戦後は海上保安庁の巡視船になったものもいる。
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[編集] 概要
日本海軍は、択捉型海防艦以降、対潜・対空性能および量産性を重視した海防艦を建造しようとしていたが、御蔵型海防艦は、戦時急造を要する護衛艦としては、まだ工数が多く量産性に欠けるものであった。本型は、日振型海防艦とほぼ同型の艦であり、各所の構造が大幅に簡易化、従来の曲線部分を平面化するなど簡略設計がなされ、量産性に優れている。日振型との差異は、単艦式大型掃海具を装備せず、三式爆雷投射機を片舷8基(計16基)搭載し、対潜能力が大幅に向上していることにある。
[編集] 要目(新造時)
- 基準排水量:940t
- 全長:78.8m
- 全幅:9.1m
- 喫水:3.0m
- エンジン:22号10型ディーゼルエンジン2基2軸
- 馬力:4,000馬力
- 速力:19.5ノット
- 航続距離:16ノットで5,000海里
- 兵装:45口径12センチ高角砲 連装1基・単装1基、25mm三連装機銃2基、九四式爆雷投射機2基、三式爆雷投射機16基、爆雷投下軌条2基、爆雷120個など。
[編集] 同型艦
- 鵜来(うくる) - 1944年6月5日竣工。ネームシップ。連合艦隊が泊地として利用していた高知県宿毛湾の鵜来島の名から命名された。終戦時、日本海で行動中。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船さつまとなる。1965年解役。
- 沖縄(おきなわ) - 1944年8月16日竣工。1945年7月30日、舞鶴にて空襲を受け、大破着底。後に解体。
- 奄美(あまみ) - 1945年4月8日竣工。終戦時残存。復員輸送任務の後、イギリスへ賠償艦として引渡し。
- 粟国(あぐに) - 1944年12月2日竣工。釜山にて終戦。
- 新南(しんなん) - 1944年10月21日竣工。終戦時残存。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船つがるとなる。1966年解役。
- 屋久(やく) - 1944年10月23日竣工。1945年2月23日、潜水艦の雷撃により沈没。
- 竹生(ちくぶ) - 1944年12月31日竣工。終戦時残存。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船あつみとなる。1962年解役。
- 神津(こうづ) - 1945年2月7日竣工。終戦時残存。ソ連へ賠償艦として引渡し。
- 保高(ほたか) - 1945年3月30日竣工。終戦時残存。アメリカへ賠償艦として引渡し。
- 伊唐(いから) - 1945年3月24日竣工。終戦時残存。復員輸送任務の後、解体。
- 生野(いくの) - 1945年7月17日竣工。終戦時残存。復員輸送任務の後、ソ連へ賠償艦として引渡し。
- 稲木(いなぎ) - 1944年12月16日竣工。1945年8月9日、八戸にて空襲を受け沈没。
- 羽節(はぶし) - 1945年1月10日竣工。終戦時残存。復員輸送任務の後、アメリカへ賠償艦として引渡し。
- 男鹿(おしか) - 1945年2月21日竣工。1945年5月2日、潜水艦の雷撃により沈没。
- 金輪(かなわ) - 1945年3月15日竣工。終戦時残存。復員輸送任務の後、イギリスへ賠償艦として引渡し。
- 宇久(うく) - 1944年12月30日竣工。終戦時残存。復員輸送任務の後、アメリカへ賠償艦として引渡し。
- 高根(たかね) - 1945年4月26日竣工。終戦時残存。その後、解体。
- 久賀(くが) - 1945年1月25日竣工。舞鶴にて終戦。その後、解体。
- 志賀(しが) - 1945年3月20日竣工。呉防備隊に配属され慣熟訓練中の4月、旗艦戦艦大和以下沖縄特攻に向かう第二艦隊の前路掃討を実施したところ敵潜水艦を発見し、これを零式水上偵察機と共同して爆雷攻撃する。終戦時残存。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船こじまとなる。海上保安大学校練習船(以降、歴代練習船は「こじま」の名を継承)として運用された後に1965年岸壁に係留された状態で千葉市の海洋公民館となり、そのまま周囲が埋め立てられて団地の中の公民館施設として親しまれたが、1998年老朽化や建築法不適格を理由に解体。保存活動を一切無視、解体を強行した千葉県の行動が批判された。
- 伊王(いおう) - 1945年3月24日竣工。終戦時残存。復員輸送任務の後、解体。