董卓
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董卓(とう たく、ピンインDŏng Zhuó 生年不詳 - 初平3年4月23日(192年5月22日))は後漢末期の軍人・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。董紹(字・君雅)の子。兄に董擢(字は孟穎か伯穎)、弟に董旻(字・叔穎)がいる(その下に董承という弟がいたという説もある)。子の名は不明。甥に董璜、孫娘に董白がいる。隴西郡臨洮(洮は、さんずいに兆)の出身。献帝を擁し、宮廷で権勢をほしいままにしたが、養子の呂布に殺された。
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[編集] 事跡
[編集] 青年期と地方官時代
若いころは羌と交わり、牛を素手で殺すほどの腕力があったという。羌族のある族長たちが面会に来たとき、農耕に使う耕牛を殺し、その肉でもてなした。族長はとても感激し、帰ると董卓に畜獣千頭を贈ったという。後、州の兵馬掾となって、羌や胡などの遊牧民にも恐れられた。張奐の率いる軍に従軍し、先零羗と戦った際は、族長を斬り、一万余りを捕斬する活躍を見せ銭二十万を下賜されたがそれを辞退し、絹九千匹を納め、ことごとく部下に分け与えた。辺境で軍人として活躍し、異民族と戦い、西域戊己校尉、并州刺史、河東太守などを歴任した。機知に富み、士卒の気持ちがわかる親分肌の人間であったらしい。中国の北部・西部では漢民族に属するとされていても遊牧民の血が混じっている場合が多く、彼もそのような人間であったのかもしれない。
[編集] 動乱期の動向
中平元年(184年)、東中郎将に任命され黄巾賊を討つも、敗退して職を免ぜられる。同年冬、西涼の辺章・韓遂・馬騰らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年(185年)、董卓は再び中郎将に返り咲き、反乱鎮圧に向かい、破虜将軍に任ぜられた。中平5年(188年)には、黄巾賊の反乱の鎮圧に出動したが、彼の作戦は的を射ておらず、手柄を皇甫嵩に全て奪われてしまう。その後、朝廷から軍を皇甫嵩に引き渡して帰還を促す命令を受けるが辺地の治安悪化を理由に拒否し、駐屯を続け、翌年中平6年(189年)并州牧となる。 なお、并州牧任官と同時に、軍については手放すよう二度目の命令を受けたが、彼は再び拒否している。この辺りから董卓の野心と横暴さが前面に出て来たのかも知れない。
[編集] 政権掌握へ
同中平6年に霊帝が没すると、大将軍の何進らは宦官を一掃しようと計画し、何進に召し出された董卓は首都洛陽に軍勢を進めた。宦官一掃計画が進む中、宦官の一人中常侍の段珪が新帝劉弁(少帝)とその弟の陳留王を連れ去ったが董卓がこれを救出した。董卓は二人と会話をしながら帰路についたが、この時劉弁は満足な会話さえ十分にできないのに対して、陳留王は乱の経緯など一連の事情をすらすらと話して見せたことから、陳留王の方が賢いと思ったという。
董卓が洛陽に入った時は3000ほどの兵力しかなかったが、何進の軍勢を吸収し、丁原を呂布に暗殺させて(演義では、同郷の李粛に赤兎馬を贈呈して寝返らせている)丁原軍の兵をも自分のものにして大兵力を誇った。同じ頃呂布を養子にし、兵力を背景に司空となった。劉弁の生母である何太后を脅して、劉弁を廃させて(弘農王)、陳留王を皇帝とした(献帝)。また、何太后が霊帝の母である董太后を圧迫したことを問題にし、権力を剥奪した。董卓は何太后を永安宮に幽閉し、まもなく殺害した。
[編集] 専横とその最期
その後太尉に、ついで相国となり(演義では太師と呼ばれている)、朝廷でゆっくり歩くことと剣を帯びること(注:中国においては、臣下は宮中を早足で歩かなければならないとされていた。また、剣を帯びていると暗殺ができるので剣を持つことは禁じられていた)を許された。位を極めた董卓はまさに暴虐の限りを尽くし、洛陽の富豪を襲ったりした。これに反発した袁紹・袁術などの有力者は、橋瑁の呼びかけ(三国志演義では曹操)で反董卓連合軍を組織した。また、董卓は弘農王を殺害し、根拠地に近い長安に強制的に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れたという。しかし、(演義では董卓が焦土作戦をとったため補給が困難になったこともあり)長安遷都後連合軍は自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走った。
長安でも暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、インフレを招いた。長安近くの郿に難攻不落の城塞を築き(郿城・郿宇城と言われる)、30年分の食糧を蓄えていたという。初平3年4月(192年)に司徒王允と呂布により暗殺された。親子の契りを結んだ呂布が董卓を殺害した原因について、正史では、小さな過失から呂布は董卓に殺されかけたことがありそれ以来恨みを持つようになった為とか、董卓の侍女に手を出したことの発覚を呂布が恐れたためとか書かれている。三国志演義では、これを元に王允の養女貂蝉を奪い合う呂布と董卓の「(美女)連環の計」が描かれている。 事件後、長安・郿に居た董旻、董璜をはじめとする董卓の一族は、全員が呂布の部下や袁一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる董卓の母親も殺された。
また、董卓によって殺された袁氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、董氏一族の遺体は集められ火をつけられた。董卓はたっぷりと脂肪が付いていたらしく、夜営の兵が戯れにへそに挿した灯心が数日間は燃えていたと書かれている。また、『御覧引董卓別伝』には 百姓たちは向かい合って喜び、舞い踊り、みんな家中の指輪・衣服・ベッドを売って、お酒とごちそうを買い、お互いに祝賀を挙げ合った、とある。長安の酒と肉の値段はそのため急騰した。 後になって、董卓の部下だった兵士が、死体の灰をかき集めて郿城に葬っている。『三国志演義』ではこの葬儀の場面を脚色し、「・・・、李傕ら四将は、董卓の遺体を命令を出して探索させたらほんのわずかの骨や皮の切れ端しか見つけられなかったので、香木を彫って董卓の像を造り、遺体の代用とした。郿宇城に持って行き、大々的に葬儀を行い王者の衣冠・棺を用いてこれを埋葬したところ、雷鳴がとどろき、豪雨によって平地は数尺の水におおわれ、落雷が董卓の遺体を粉々にした。、李傕は三度、埋葬し直したが、その都度雷鳴はとどろき、雷によって董卓の遺体はもはやこの地上には何も残らなかった。董卓に対する天の怒りの甚だしさといえよう。」とある。
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