S21
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S21[エス-21、クメール語:]は、クメール・ルージュ支配下のカンボジアに於いて設けられていた政治犯収容所の暗号名である。
稼働中は存在そのものが秘密であったため、公式名称は無い。現在は地名を取って「トゥール・スレン」と呼ばれており、国立の「トゥール・スレン虐殺博物館」となっている。
2年9ヶ月の間に14000~20000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは7名(現在身元が分かっているのは6名)のみであった。
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[編集] 発見
クメール・ルージュは中国以外の国に対しては一切秘密主義を貫いていたため、そうした政治犯収容所の存在は国外には知られていなかった。1979年1月、ベトナム軍がプノンペンに突入、そこでその収容所を発見した。A棟1階の尋問室でクメール・ルージュが撤退間際に殺害した14名の遺体があり、収容所全体では50名程度の遺体があった.また膨大な収容・処刑記録の文書があった。
ベトナムがカンボジアに傀儡のヘン・サムリン政権を擁立するにあたり、この収容所跡はベトナム側の政治宣伝(“ポル・ポトからカンボジアを救ったのはベトナムである”)として利用される事になり、わずか数日で外国のプレスに公開された。その年の内には、クメール・ルージュの残虐行為を展示する博物館が急遽設置された。
それまでクメール・ルージュを評価していた諸外国の左派知識人達はその衝撃に耐えられず、自著でクメール・ルージュを賞賛した記述を削除するなどの行動に走った者も居る。
[編集] 歴史
クメール・ルージュを参照。 プノンペンの中心からやや南方に位置するこの場所には、「トゥール・スヴァイ・プレイ」と言うリセが位置していた。「革命に学問は不要」と言う方針を打ち出したクメール・ルージュは1976年4月頃、無人になったプノンペンの中心に位置するこの学校を、反革命分子を尋問しその係累を暴くための施設に転用した。
「革命が成功したのに飢餓が進むのは誰か反革命分子が居るからに違いない」という、ポル・ポトを初めとする党中央の被害妄想に、現場の看守は残虐行為で応えた。囚人達はいわゆる拘禁反応によって、看守達が欲している答え(「わたしはアメリカ帝国主義の手先でした」「わたしはベトナムのスパイでした」)を言い、その対価として拷問の責め苦からの解放(=処刑)を得た。
彼らの遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になったのと、処刑時の叫び声が響く事から、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15kmのチュンエク村に移された(キリング・フィールド)。同じ理由からか、尋問の場所もリセの正門前の民家に広げられた。或いは手狭になったためかも知れない。
S21の指揮官であった“ドッチ”は、「自分は命令に従っただけだ」と述べた。彼はかつて高校の数学教師でしかも中国系である事から、粛清の標的になりやすい立場にいた。そのため、党中央の威光に縮み上がり、なおかつ計算高くその意向(反革命分子をあぶり出すためにあらゆる手段を使う事)に従おうとした事は想像に難くない。 所長でさえこうした姿勢であったため、あまつさえ看守は忠誠を示すために残虐行為を当然の如くに行った。看守には10代の少年少女がなる事が多かったが、S21の秘密を守るための粛清の危険に常に晒されていた。実際、多くの看守が後に収容され処刑されている。
一方、ポル・ポト、イエン・サリ、タ・モク、キュー・サムファンら党中央は後年「拷問しろなどと命令した覚えはない」と強弁した。
S21では、囚人の写真と処刑後の写真、囚人や看守が書かされる「自分史」(自己批判文)、詳細な自白調書など膨大な記録が作られたが、クメール・ルージュ自身がそれを使って「本当に反革命分子を捕まえているのか」を検証した形跡は無い。むしろこれらは、「これだけの反革命分子を捕まえ、そして反クメール・ルージュ的組織の情報をこれだけ引き出した」という実績作りのためだけに作られたようである。 しかし1978年の終わりには、「拷問によって得られた自白の信憑性」を疑う空気がようやく収容所幹部にも漂ってきたのか、拷問を差し控えるようになる。だがS21の恐ろしさは十二分にカンボジア国民に植え付けられており、収容者は次から次へと「米帝との関わり」を「自白」(創作)し、処刑されていった。中央政府から地方組織や各事業所に至るまで、幹部の多くが処刑された事によってクメール・ルージュは弱体化していく。
その後間もなくベトナム軍によってS21の存在は白日の下に晒される事になる。1979年1月7日にベトナム軍はプノンペンを制圧したが、クメール・ルージュは全員撤退・逃亡した後だった。翌日、ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この施設を発見した。
[編集] 現在
発見時のままに保存されている拷問室、1000名ほどの収容者(一部は少年・少女看守)の写真、生還した画家が描いた拷問の様子など、現在のトゥール・スレン博物館の展示内容は開館時と余り変わっていない。但し、悪評を招いた「骸骨で作ったカンボジア地図」は2002年に撤去された。クメール・ルージュが遺した膨大な文書をイェール大学やコーネル大学が分析しているにも関わらず、その結果は展示内容に反映されないままである。
[編集] 尋問中の保安規則
- 質問された事にそのまま答えよ。話をそらしてはならない。
- 何かと口実を作って事実を隠蔽してはならない。尋問係を試す事は固く禁じる。
- 革命に亀裂をもたらし頓挫させようとするのは愚か者である。そのようになってはならない。
- 質問に対し問い返すなどして時間稼ぎをしてはならない。
- 自分の不道徳や革命論など語ってはならない。
- 電流を受けている間は一切叫ばないこと。
- 何もせず、静かに座って命令を待て。何も命令がなければ静かにしていろ。何か命令を受けたら、何も言わずにすぐにやれ。
- 自分の本当の素性を隠すためにベトナム系移民を口実に使うな。
- これらの規則が守れなければ何度でも何度でも電流を与える。
- これらの規則を破った場合には10回の電流か5回の電気ショックを与える。
[編集] 参考文献
- デイヴィッド・チャンドラー著 山田寛訳『ポル・ポト 死の監獄S-21』ISBN 4-8269-9033-2
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- S21: The Khmer Rouge Killing Machine - 犠牲者の遺族であるリチー・パンが制作したドキュメンタリー映画。2003年カンヌ映画祭フランソワ・シャレー賞受賞
- Prisoners at S-21 Prison - 囚人の写真の一部
- Yale > Cambodian Genocide Project > The CGP, 1994-2004 - イェール大学カンボジア大虐殺プロジェクト
- genocide - 写真などの資料集