ポル・ポト
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民主カンプチア第3代首相
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任期: | 1975年5月13日 – 1979年1月7日 |
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出生日: | 1925年5月19日 |
生地: | 仏領インドシナ |
死亡日: | 1998年4月15日 |
没地: | カンボジア |
政党: | クメール・ルージュ |
ポル・ポト(Pol Pot、本名:サロット・サル、Saloth Sar、1925年5月19日 ‐ 1998年4月15日)は、カンボジアの政治家、独裁者。
民主カンプチア首相、クメール・ルージュ書記長(カンボジア共産党)。彼の支配中に膨大な数のカンボジア人が虐殺された。
目次 |
[編集] 生い立ち
サロット・サルは、仏領インドシナの一部Prek Sbauv(現在のカンボジア・コンポントム州)で農家の9人兄弟の8番目として生まれ育った。1949年に無線工学を研究するため奨学金を受けパリに留学した。留学中に彼は共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。このグループはフランス共産党と呼ばれた(しかしながらこの政党は当時ヨーロッパで最も過激な左翼政党であり、スターリン主義に傾斜していた。後の大虐殺の遠因はこの影響からだという説もある)。彼は1953年にカンボジアへ帰国し、フランス語教師として働いた。また、1956年、パリで知り合った夫人キュー・ポナリーと結婚した。
[編集] カンボジア共産党
共産主義 |
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当時、フランスのインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっていた。この活動の中心はベトナムにあったが、さらにカンボジアとラオスに波及した。サロット・サルはベトミンに参加したが、ベトミンがベトナムのみを重視し、ラオスおよびカンボジアに関心がないことを知った。1954年にはフランスが仏領インドシナを去ったが、ベトミンはさらに北ベトナムへ引き下がった。
1955年3月3日、シアヌークは国王を退位し、後に政党を組織する。彼はその人気と威嚇を使用して共産主義の反対勢力を一掃し、1955年9月11日の選挙で議席をすべて獲得した。しかし政界では左派・右派の対立が絶えず、シアヌークが必要に応じて左派の重用と弾圧を繰り返したため、ポル・ポトやイエン・サリ、キュー・サムファンといった左派の指導者はジャングルに逃れる。
ポル・ポトはシアヌークの秘密警察を避け、12年を地下活動で費やした。1960年、カンボジア共産党中央常任委員を経て、1962年に書記に就任した。1967年にポル・ポトは中華人民共和国に支援されて政府に対する武装蜂起を始めた。カンボジア共産党は後にクメール・ルージュとして知られ、同党の武装組織はポル・ポト派と呼ばれた。ポル・ポトはその思想に毛沢東思想の変形を採用した。クメール・ルージュは完全な平等主義の土地均分論を考え社会主義の中間段階を回避し、原始共産主義の達成を目指した。
[編集] シアヌークとの蜜月
シアヌークが南ベトナム解放民族戦線に支援されていると見なしていたアメリカ合衆国はロン・ノル将軍を支援、1970年3月18日にクーデターを起こし、シアヌークを政権から退けた。
1970年以前のカンボジア共産党はカンボジア政治の些細な勢力だったが、これに対抗してシアヌークは以降ポル・ポトの側へ支援を行うこととなった。同年アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、南ベトナムと隣接するベトコンの拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を命じた。シアヌークの人気とアメリカ軍のカンボジア侵攻は、ポル・ポト側に有利に働いた。また、ロン・ノル政権は都市だけしかコントロールできなかった。
[編集] 全権掌握
[編集] 民主カンプチア
1973年、アメリカがベトナムから撤退。それと同時に、ベトコンはカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは戦いを続けた。国土に対する管理が維持できずロン・ノル政権はすぐに崩壊し、1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領し、国名を民主カンプチアと改名。ロン・ノルはアメリカへ逃亡した。
なお、5月12日にカンボジア領海でクメール・ルージュ軍がアメリカ商船マヤグエース号を拿捕するというマヤグエース号事件が発生している。
ノロドム・シアヌークは1975年に復権したが、すぐに自身が急進的な共産主義の同僚と同列にされていることを理解した。彼らは君主制を回復するシアヌークの計画に興味をほとんど持たなかった。クメール・ルージュ強硬派はシアヌークの道化を許容できず、1976年4月2日、彼を自宅監禁。既存の政府は崩壊し国家元首としてのシアヌーク王子はその地位を追われた。また、キュー・サムファンは初代大統領になった。
1976年5月13日に、ポル・ポトが民主カンプチアの首相に就任し、大粛清を始め、国家の改造を行った。アメリカ軍の地方への爆撃によりその人口は減少し、対して都市の人口を増加させた。1976年直前にプノンペンの人口は100万以上までに増加した。
クメール・ルージュが権力を獲得した時、彼らは、都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させた。私財は没収され、教育は公立学校で終了した。ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と号して、政治的反対者に弾圧を行った。プノンペンは飢餓と病気、農村への強制移住によってゴーストシティに変えられ、何千ものロン・ノル政権時代からの政治家、官僚やインテリが殺戮された。医者や教師なども見つかると殺され、眼鏡をはめているという理由だけで処刑された事例もあった。この結果、カンボジアの社会基盤は大打撃を受けた。
また、ポル・ポトが「完全な兵士」として賞賛した地雷は、地方に広く埋設された。
ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア爆撃がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという議論がある(ウィリアム・シャウクロスの1979年の著書『Sideshow』がこの点に触れている)。
ポル・ポト政権下での内戦およびベトナム軍の侵攻による死傷者数は議論されている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万とした。ポンチャウド神父は230万とするが、これはクメール・ルージュが政権奪取する以前の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万、アムネスティ・インターナショナルは140万、アメリカ国務省は120万と概算した。 キュー・サムファンおよびポル・ポトは当事者による過小評価であるが、100万と80万をそれぞれ概算した。
[編集] 没落
伝統的にカンボジア人の間では東南アジアの覇権を握ろうとするベトナムに対する反感が強い。それはイデオロギーに関係なく、内戦中はロン・ノル政権、クメール・ルージュ双方が国内のベトナム人を迫害した。権力を掌握したポル・ポトらは東部国境でベトナムへの越境攻撃を繰り返し、現地住民を虐殺した。これがベトナムの侵攻を招く要因になる。
1978年後半ベトナム軍がカンボジアに侵攻、クメール・ルージュ軍は敗走しポル・ポトはタイとの国境へ逃れた。1979年1月にベトナムは、粛清をさけてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン傀儡政権を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分はもし離脱しなければ告発されるという恐れによって動機づけられた。ポル・ポトは戦闘を続けるために国の西部の小地域を保持した。以前にポル・ポトを支援した中国は‘懲罰行為’としてベトナムに侵攻し中越戦争が起こった。
[編集] 余波
ソ連に敵対したポル・ポトはタイおよびアメリカから直接的、間接的に支援された。アメリカと中華人民共和国は、ヘン・サムリン政権のカンボジア代表の国連総会への出席を拒否した。ポル・ポトが反ソビエトだったので、アメリカ、タイおよび中国はベトナム支持のヘン・サムリンより好ましいと考えた。
また、ポル・ポトとシアヌークおよびナショナリストのソン・サンの間の反べトナム同盟を促進することを試みた(1981年9月4日3派合意)。ポル・ポトは、この終了を求めて公式に1985年に辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党のリーダーとして支配的影響力を維持した。
1989年ベトナム軍はカンボジアから撤退した。ポル・ポトは和平プロセスへの協力を拒絶し、新しい連立政権と戦い続けた。クメール・ルージュは1996年まで政府軍を寄せつけなかったが、軍が堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。
[編集] 死去
1997年にポル・ポトは政府との合意を行なうために彼の長年の側近ソン・センを処刑した。しかしその後、自身がクメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって逮捕され、生涯の自宅監禁が宣告された。1998年の4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。伝えられるところによれば、1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死んだ。遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺のいずれかが死因と見られている。
遺体は古タイヤと一緒に焼かれたあとで埋められ、墓は立てられなかったのだが、ポル・ポトを慕う近隣の住民たちが自主的に墓を作り、現在も線香の煙が絶えることがないという。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクト
- A meeting with Pol Pot Elizabeth Becker of The New York Times
- Pol Pot's death confirmed CNN Report
- Interview with P. Short, UCLA International Institute
TIME誌選出・今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人 |
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