お東騒動
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お東騒動(おひがしそうどう。おひがしさんそうどう、とも)は真宗大谷派が、真宗大谷派・浄土真宗東本願寺派など4派に分裂するにいたった宗門内の対立。やや揶揄した響きを持つ場合もある。
目次 |
[編集] 経緯
[編集] 大谷家当主への権威・権限の集中
真宗大谷派では、明治時代以降、歴史的な経緯もあって、親鸞の血筋を引く大谷家の当主が次の3つの地位を一元的に継承・掌握し、高い宗教的権威と強い権限とを有していた。
なお、当時は真宗大谷派とその本山の本願寺は法規上、別法人であった。
戦後、当主の座にあったのは、大谷家第24代の大谷光暢(闡如)師であった。
[編集] 改革への動き
しかし、1960年代の終わり頃から、こうした教団のあり方をめぐり激しい意見の対立がみられるようになった。 真宗大谷派内部にあって改革を主張する勢力は、次の2つの考えをかかげて、当時の教団のあり方の改革を訴えた。
- 同朋公議
- 教団の運営は、何人の専横をも許さず、本来的に同信の門徒・同朋の総意によるべきである。
- 宗本一体
- 宗派としての真宗大谷派と、その構成者たる門徒が帰依処とする本願寺は、本来的に不可分一体のものである。
[編集] 改革の実施
上記の考えに基づき、1981年6月、宗憲(宗派の憲法にあたる法規)が改正され、次のような改革が行われた。
- 宗派運営の権限が、選挙により選出される議員の構成する宗派の議会(宗議会〈=僧侶の代表〉と参議会〈=門徒の代表〉の二院制をとる)に移された。
- 従来の「法主」「管長」「本願寺住職」にかわり、門徒・同朋を代表して仏祖崇敬の任にあたる象徴的地位として門首が置かれた。
- 1987年には、大谷派と包括・被包括の関係にあった宗教法人としての本願寺が法的に解散され、宗派と一体のものとされた(以後、東本願寺の正式名称は「真宗本廟」〈「本廟」とは、同信同行の門信徒が宗祖親鸞の教えを聞信する根本道場・帰依処としての、親鸞の「はかどころ」の意〉となる)。
現在、改正後の宗憲に基づく門首の地位は、大谷光暢の三男である大谷暢顯(淨如)師が継承している。
[編集] 浄土真宗東本願寺派の分立
一方、当時同派の東京・浅草別院住職であった大谷光紹(興如)師(大谷光暢の長男)を中心とする勢力は、教学の構築・教団の運営は従来通り伝統的権威と権限とを有する法主を中心になされるべきであるとの姿勢を保ち、この見解に賛同する末寺・門徒も少なくない状況であった。
これらの人々は、1981年6月15日、大谷派における宗憲の改正と時期を同じくして、東京都知事の認証を得て浅草別院を大谷派から分離独立させ、同寺を中心にこれに賛同する末寺・門徒をまとめて「浄土真宗東本願寺派」を名乗ることとなった。
[編集] その他の動き
なお、浅草別院の分離独立の後も、これとは別に、大谷光暢の次男大谷暢順(經如)師・四男大谷暢道(後に光道と改称する。秀如)師をそれぞれ支持する勢力が、同じく教団のあり方をめぐる意見の対立から大谷派を離脱する動きがあった。
[編集] 現在の4派
以上の経緯により現在、真宗大谷派は法規上、次の4派に分かれている。
宗派 | 本山 | 最高地位 | 末寺数 |
---|---|---|---|
真宗大谷派 | 真宗本廟 (通称 東本願寺) |
大谷暢顯門首(淨如) | 約九千 |
浄土真宗東本願寺派 | 東本願寺 (旧真宗大谷派東京別院東京本願寺) |
大谷光見法主(聞如) (故大谷光紹(興如)の長男) |
三百数十 |
財団法人本願寺維持財団 | 本願寺(京都市伏見区) | 大谷暢順門跡(經如) 大谷光輪門主(楽如) |
未詳 |
大谷本願寺 (本願寺寺務所・東本願寺大谷家) |
本願寺(京都市右京区) | 大谷光道法主(秀如) | 未詳 |
[編集] 対立の根底
「お東騒動」の原因となった教団のあり方をめぐる意見の対立の根底には、近代社会における全く異なる方向性を持つ次の2つの動きがあった。
- 体制面における宗教的権威者への伝統的尊崇の念に基づく権限の集中
- 教学(思想)面における個々人の自覚を重視する方向性の高まり
[編集] 宗教的権威者(法主)への権威・権限の集中とその理由
明治時代以降の真宗大谷派においては、清沢満之らの登場により、個々人の宗教的自覚を重視する、近代的な「個」の形成にも対応し得る教学思想の研鑽が早くから進められた。しかし一方で宗派の体制としては、宗教的権威者として伝統的に尊崇されていた法主を推戴し、そのもとに強い権限を集中させる体制がむしろ強化されていた。
こうした体制が構築・強化された背景には、江戸時代に緊密であった幕府との関係を払拭し明治政府の政策に積極的に賛助することや、数度にわたって焼失した本願寺の堂宇を再建することが差し迫った課題であったことが挙げられる。
[編集] 個々人の自覚を重視する教学思想の形成
第二次世界大戦後の1960年代になって、近代的な教学思想の成熟と当時の社会的変動への対応の必要性とに由来する同朋会運動が発足し、そこでのテーマの一つとして「家の宗教から個々人の自覚としての宗教へ」がかかげられた。その結果として、次第に従来からの教団の体制が問題視されるようになったのである。
「お東騒動」と称される真宗大谷派における対立状況は、上に述べたような近代日本における体制面と思想面での二つの動きが、同一宗派内において同時期に集中的に展開した結果、いわば必然的に表出したものであったともみなされる。
[編集] 関連書籍
- 『東本願寺三十年紛争』田原由紀雄著(白馬社/2004年)ISBN 978-4-938651-51-0
- 『東本願寺をめぐる争訟事例集』(全3巻)入江正信編(商事法務研究会/2003年)ISBN 978-4-7857-1033-0,ISBN 978-4-7857-1034-7,ISBN 978-4-7857-1035-4
- 『祖師に背いた教団-ドキュメント・東本願寺30年紛争-』田原由紀雄著(白馬社/1997年)ISBN 978-4-938651-19-0
- 『貴族の死滅する日―東本願寺十年戦争の真相(増補新装版)』落合誓子著(晩聲社/1995年)ISBN 978-4-89188-246-4
- 『東本願寺大谷光紹』泉龍路著(ハート出版/1988年)ISBN 978-4-938564-16-2
- 『共産党対本願寺―乗っ取るまでの30年暗躍史』共産党から宗教を守る会編(タイムレビュー社/1980年)
- 『東本願寺の変―10年紛争を解く』上之郷利明著(サイマル出版/1979年)ISBN 978-4-377-30444-2