親鸞
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親鸞 | |
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1173年5月21日 - 1263年1月16日 | |
諡号 | 見真大師 |
生地 | 京都 |
宗派 | 浄土真宗 |
師 | 法然 |
著作 | 教行信証他 |
親鸞(しんらん、承安3年4月1日(1173年5月21日) - 弘長2年 11月28日(1263年1月16日))は浄土真宗の開祖である。死後に皇室から見真大師(けんしんだいし)(明治天皇、1876年)の諡号を追贈されている。
仏教の一派である浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖。天台宗の堂僧となった後、法然の弟子となり、一派を起こした。ただし自身はあくまで法然を師と仰ぎ、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承しさらに高めて行くことに力を注いだのである、自らが宗派を立てるという意志は持っていなかったとも考えられ、各地につつましい念仏道場を設けて教えをひろめる活動を行っていたという形であった。親鸞の念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、親鸞の亡くなった後に一宗派として確立されたとされる。
目次 |
[編集] 親鸞の教え
浄土三部経と呼ばれる無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経に釈迦が説かれた阿弥陀仏の本願の教えを正しく伝えた高僧として、インド仏教の龍樹、天親、中国仏教の曇鸞、道綽、善導、日本仏教の源信、法然の7人(七高僧)を挙げている。
阿弥陀仏にこの世で救われて南無阿弥陀仏と報謝の念仏を称える(称名)身になれば、死ねば阿弥陀仏の浄土(=極楽)へ往って、阿弥陀仏と同じ仏に生まれることができる。なぜなら阿弥陀仏によって建てられた48の誓願(=四十八願)が完成されており、その第18番目の願(=本願)に「すべての人が救われなければ、わたしは仏とはならぬ」と誓われているからである。
このため、人が往生出来るのは阿弥陀仏の本願によってであり、この理(ことわり)を信ずること(=信心)によって、往生することができるとし、信心正因称名報恩という。しかも、この信心も阿弥陀仏から賜ったものであるから、すべてが阿弥陀仏の働きであるとし、これを他力本願(たりきほんがん)と呼ぶ。この他力とは阿弥陀仏の働きをさし、一般の単なる「他人まかせ」や「太陽の働きや雨や風や空気、そのほかの自然の働き」という意味でのこの言葉の使用は本来の意味の誤用から転じたものであり、敬虔な浄土真宗信者(門徒)の心を傷つけることがある。
「悪人正機」と呼ばれる思想も親鸞独自のものとして知られている。既に親鸞の師・法然に見られる思想であるが、これを教義的に整備したのが親鸞であるともいわれる。「歎異抄」に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人間は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。人間はすべて悪(往生の手段とならない行為)しかなせない。だから、悪人と自覚している人間の方が、自分は善人だと思っている人間より、本願により救われる道を自覚していることになる>という逆説的な表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。
さらに、阿弥陀仏に救われている私であるとして、信一念時に、死んで極楽浄土に往生出来る身に定まった現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)の身となり喜ぶことを勧めた。この考え方は法然を超えたもので、浄土宗と浄土真宗の教義上の違いの一つである。
[編集] 親鸞の生涯
父、日野有範(ありのり)は皇太后宮の大進(だいしん)であり、承安3年(1173年)4月1日(太陽暦: 5月21日)京都、伏見区日野に誕生した(最近の研究では出自を日野氏とすることに疑問を示す意見もある)。治承5年(1181年)9歳、慈円のもとで出家し、範宴(はんねん)と呼ばれた。出家後、比叡山延暦寺で、堂僧(下役僧)として首楞厳院(しゅりょうごんいん)の堂衆(加行僧)に奉仕しながら、自らも不断念仏(ふだんねんぶつ)の修行をしたとされる。
建仁元年(1201年)、29歳のとき、京都市内の六角堂に参篭し救世観音に祈念し、95日目の暁に、聖徳太子(救世観音)の夢中の示現と偈句を得て、法然のもとに行った。このとき、法然は69歳。親鸞は入門5年後の元久2年(1205年)4月14日選択集の書写を許された。この頃、釈綽空(しゃくしゃっくう)と名を改めていた。さらに同年、法然の肖像画の制作も許され、善信と改名した。また、このころ法然の元で学ぶ間に結婚したとする説が近年有力である。
建永2年(1207年)2月、興福寺の訴えにより、専修念仏の停止と、遵西など4名を死罪、法然・親鸞ら8名が流罪となった(承元の法難)。このとき親鸞は僧籍を剥奪され、越後国府に配流された。禿の姓を名のって非僧非俗の生活を送った。越後において結婚したという説も有力であり、配流中に子をもうけている。建暦元年(1211年)11月、法然とともに罪をゆるされた。法然は建暦2年(1212年)1月25日、京都で80歳をもって示寂。親鸞は、京都に帰らず越後にとどまった。
建保2年(1214年)越後を出て、常陸(ひたち)へ向かい関東での布教活動を展開した。約20年ののち、62、3歳のころ京都に帰った。この間、常陸や下野などの直弟子の24人が開山した、二十四輩と呼ばれる24の寺があり、それぞれが現在も存続している。その主著教行信証は関東で草稿ができていたようであり、完成したのは、京都に帰ったのちの寛元5年(1247年)ごろである。宝治2年(1248年)76歳のとき、まず浄土和讃と高僧和讃とを脱稿した。正嘉のころには正像末和讃をまとめた。以上の3本を三帖(さんじょう)和讃と呼ぶ。
親鸞が帰京してのちの関東では、さまざまな異端が流行した。そこで親鸞は息子の善鸞を説得のため東国に派遣した。しかし善鸞は、異端の専修賢善に傾いたともいわれ、正しい念仏者までも弾圧しようとした。建長8年(1256年)5月29日付の手紙で、善鸞と親子の縁を切った。歎異抄に想起される関東衆の訪問はこれに前後すると予想される。
親鸞と関東から帰った妻、恵信尼は、20年ほどともに暮らしたのち、故郷の越後に帰ったといわれる。弘長2年(1262年)11月28日(太陽暦:1263年1月16日)、弟の尋有(じんう)僧都(そうず)の住坊「善法坊」(現在の角坊別院、史料の解釈によっては旧柳池中学校付近)において90歳をもって示寂した(現在でも11月28日には親鸞を偲んで「報恩講」が行われている)。臨終は、尋有や末娘覚信尼が見とり、鳥辺山南辺(現在の本廟の「御荼毘所」)で火葬。遺骨は鳥辺野(とりべの)北辺の「大谷」に納められた。頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって関東に運ばれ、関東布教の聖地である稲田草庵(後の浄興寺)に納められたともいう。
曹洞宗の開祖、道元とは互いに母方の縁戚にあたり面識があったとする説があるが、確証はない。
[編集] 親鸞の著書
- 漢文
- 日本語
- 関連書籍
- 恵信尼消息
- 歎異抄
[編集] 親鸞を描いた文芸作品
[編集] 関連項目
- 親鸞賞(親鸞を記念した文学賞)
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