アドルフ・アダン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
![]() |
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
アドルフ・アダンまたはアドルフ=シャルル・アダン(Adolphe Charles Adam, 1803年7月24日 - 1856年5月3日)はフランスの舞台音楽の作曲家・音楽評論家。日本のバレエ業界では伝統的にアダムではなくアダンと書き表す。
パリに生まれる。父親はピアニスト・音楽教師・作曲家。他人の作品を学ぶよりは即興演奏が好きな子供だった。父親からは音楽家になるよう望まれてはいなかった。1821年にパリ音楽院に入学し、オルガン演奏をフランソワ=アドリアン・ボイエルデューに師事。20歳になるまでにパリの劇団一座のために歌を書き、ジムナスト座の楽団指揮者や楽長も務めた。
1825年にボイエルデューの《白衣の貴婦人》の上演を手伝い、そのピアノ・スコアを作成した。稼いだ金で気軽にヨーロッパ各地を旅行し、ジュネーヴで、後の協力者となる台本作家のウジェーヌ・スクリーブと出逢った。アダンは作曲の筆が速く、1830年までにしめて28曲の舞台音楽を完成させている。
オペラ座の支配人と口論の末にアダンは、自ら出資し、莫大な借金を重ねて、1847年にパリで三つ目の歌劇場、テアトル・ナショナル座を開設した。だが翌年の1848年革命によって閉鎖に追い込まれ、目も眩むような借金だけが残った。一時期ジャーナリズムに戻って、窮地から逃れようとした。1849年から没年まで、パリ音楽院で教鞭を執っている。パリに没し、モンマルトル墓地に埋葬された。
こんにちでは、バレエ《ジゼル》(1841年)がとりわけ有名である。そのほかにもいくつかのバレエ音楽と39曲のオペラを作曲し、《我もし王なりせばSi j'étais roi 》(1852年)が歌劇における代表作と呼ばれている。クリスマス・キャロル《クリスマスの賛美歌Cantique de Noël 》は、英語の題名《おお聖夜O Holy Night 》によって国際的に有名であり、ラジオの音楽番組で最初に放送された楽曲かもしれないと言われている[1]。
[編集] 外部リンク
- IMSLP - International Music Score Library Project のアドルフ・アダン・ページ。