アフマド・ヤースィーン
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シャイフ・アフマド・ヤースィーン(شيخ احمد ياسين (Shaykh Ahmad Yāsīn), 1936年 - 2004年3月22日)は、パレスチナのイスラム主義運動家で、イスラエルとの妥協拒否を掲げる運動組織ハマースの創設者、精神的指導者。報道等ではヤシン、ヤシーンと表記されることが多い。
アシュケロン近郊のガザ地区北部に生まれ、エジプトで青年期を送った。エジプトのイスラム主義組織ムスリム同胞団の活動に関わった後、ガザ地区に帰って教員となる。
1970年代にガザ地区でイスラム主義運動を始め、パレスチナのムスリム同胞団で社会互助活動に従事するが、反イスラエル行動から1984年から1985年まで逮捕された。
1987年、イスラエル軍の車両が起こした交通事故により、4人のパレスチナ人が死亡した事件が起こると、ムスリム同胞団の同志とともにパレスチナのムスリム同胞団の行動組織としてハマースを創設し、イスラエルの完全撤退を最終目標に掲げて事件をきっかけに始まったインティファーダにおいて重要な役割を果たした。
ヤースィーンはハマースの活動のため1989年に再逮捕され、イスラエル軍事法廷で終身刑を宣告され投獄されたが、獄中で生来障害のあった身体はほとんど全身麻痺となった。しかし獄中でも1993年からはヤーセル・アラファートらが進めるイスラエルとの和平案に強く反対し、イスラエルの完全撤退を訴え続けた。
1997年にイスラエル工作員との交換による政治的取引で釈放された後はガザに戻り、再び激化しはじめたパレスチナ解放闘争の精神的指導者とみなされた。
イスラエルはヤースィーンの存在を危険視し、ハマースの幹部に対して進める個人の殺害を目的とした襲撃の対象とした。2004年3月22日、ヤースィーンはガザ市内の路上を車椅子で通行中にイスラエル軍ヘリコプターのミサイル攻撃を受け、殺害された。
[編集] ヤースィーン殺害事件の波紋
ヤースィーンの殺害を国連事務総長、パレスチナ自治政府首相らは、不法な暗殺と非難し、日本を含め多くの国がイスラエルを批判する声明を発表した。
ハマースは即日、報復のため全面戦争を宣言し、翌3月23日に強硬派として知られるアブドゥルアズィーズ・アッ=ランティースィーが後継指導者に就任した。
2004年3月24日、国連人権委員会が国連史上初となるイスラエル非難決議を採択した。3月25日、アラブ諸国が国連安全保障理事会に提出したイスラエル非難決議案の採決が行われたが、ハマースのイスラエル人に対する攻撃に対する言及がないことを理由に常任理事国のアメリカ合衆国が拒否権を発動し、イギリス、ドイツ、ルーマニアは棄権した。
2004年4月17日、後継者のランティースィーがガザ市中心部で暗殺される。イスラエル軍の攻撃ヘリコプターがミサイル2発を彼の車に発射し殺害した。この攻撃で、ランティースィーの他、側近と運転手も死亡している。この件について、アナン国連事務総長は国際法違反であるとしてイスラエルを非難した。
2004年4月18日、ハマスは新しい代表を選出したが、暗殺を避けるため氏名の公表は行っていない。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Jewish Reverts To Islam(英語)
- al-fateh.net(アラビア語)
- Al Sakifah(アラビア語)