アユルシリダラ
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アユルシリダラ(Ayurširidara, ? - 1378年)は、モンゴル帝国(元)の第15代大ハーン(在位1370年 - 1378年)。北元としては初代(または第2代)のハーンである。漢風の廟号は昭宗、モンゴル語の尊称はビリクト・ハーン。
恵宗トゴン・テムル(順帝)の長男。母は高麗貢女出身の奇皇后で、モンゴル人と高麗人の混血である。1353年に皇太子となり、次第に政治権力を自ら握ることを志向するが、政治に意欲を失った皇帝のもとで政権を操っていた重臣たちは皇太子の政権奪取をこころよく思わなかったため、彼らと対立した。
1364年、反皇太子派は大同を本拠地とする軍閥ボロト・テムルを首都大都に呼び込んだので、アユルシリダラは大都を離れてボロト・テムルの政敵である河南の軍閥ココ・テムルを頼り、太原に逃れた。翌1365年、アユルシリダラはココ・テムルに命じてボロ・テムルを討ち、大都に帰って政権を握った。しかし、この内紛の結果、元軍は質量ともに惨憺たる状況に陥る。1367年、アユルシリダラは父帝トゴン・テムルによって中書令・枢密使に任命され、行政と軍事においてハーンに匹敵する権限を与えられるが、その間に江南では朱元璋(明の太祖)が着々と勢力を拡大していた。
1368年、河南で防衛にあたっていたココ・テムルの軍が明の北伐軍に敗れて元の都を守る軍事力が失われたため、アユルシリダラは父と共に大都を放棄してモンゴル高原南部の応昌府へ逃れた。1370年には父が急死した隙を明軍に突かれて応昌府からも追われ、モンゴル高原中央部の旧都カラコルムへ逃亡した。アユルシリダラはここでハーンに即位し、漢風の元号を立てて宣光とする。さらにカラコルムの元軍は遅れてモンゴル高原へと逃れてきたココ・テムルの軍と合流し、態勢を立て直した。
1372年、明の徐達率いる大軍がモンゴル高原に侵攻してきたが、ココ・テムルの活躍で撃退することに成功した。その後は中国の再奪取を目指し、ココ・テムルを総司令官としてモンゴル軍を南下させ、一次は山西北部まで勢力を盛り返すが、1375年にココ・テムルが病死してからは反攻も頓挫することとなった。アーユシュリーダラ・ハーンはその3年後の1378年にココ・テムルの後を追うようにして亡くなり、後を弟とも子ともされるトグス・テムルが継いだ。
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