アルフォンソ・ソリアーノ
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アルフォンソ・ソリアーノ(Alfonso Guilleard Soriano 1976年1月7日-)は、ドミニカ共和国サンペドロ・デ・マコリス出身のアメリカメジャーリーグ、シカゴ・カブス所属の外野手(左翼手・中堅手)兼内野手(二塁手)。右投げ右打ち。
二塁手を務めていたときはその守備の雑さでも有名であった。三振が多くサインプレーも苦手だが、それを補って余りある長打力が魅力である。また長打力だけでなく脚力も抜群で、過去に1度の40本塁打40盗塁と4度の30本塁打30盗塁を記録している。「50本塁打50盗塁」を成し遂げる可能性のあるとも言われている。メジャーリーグ関連雑誌には「ソリアノ」と表記されることもある。
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[編集] 略歴
プロ野球選手としての経歴は日本の広島東洋カープから始まる。同球団が所有するドミニカ共和国の野球スクール「カープアカデミー」で才能を認められ来日。広島時代の背番号は74。
1996年はカープでファーム、ウエスタンリーグで三塁と遊撃を守り、57試合に出場し、打率.214(131打数28安打)、本塁打0、13打点。翌1997年に一軍登録され9試合出場。17打数で2安打。今も細いが当時はさらに身体が細いにも関わらず、この頃からすでに振り回すバッティングフォームであった。また足が遅いことで有名だったためあだ名はロバと呼ばれていた。この頃カープに来ていたドミニカの選手は、チェコ以外はペレスやペルドモなど、皆小さい選手ばかりだったので背が高い印象はあった。
1998年、球団は4万5000ドルを提示するもソリアーノは16万5000ドルを要求。年俸調停を申し立て球団と揉め広島東洋カープを任意引退選手扱いとして退団。ドミニカに戻り野球に興じていたソリアーノの素質をニューヨーク・ヤンキースが見抜き1998年の9月、広島に310万ドルを支払い契約した。
翌1999年、2Aで89試合に出場。打率.305、15本塁打、24盗塁を記録し、同年秋に早くもメジャー昇格し9試合に出場。翌2000年も3Aを中心に1シーズンプレーし、終盤にメジャー昇格。転機が訪れたのは2001年、3年目のシーズン。オープン戦でも内野手として悪送球を連発したが、正二塁手チャック・ノブロックが肩を痛めたため、守備には目を瞑って二塁手に抜擢されレギュラーを掴んだ。2002年・2003年シーズンにはそれぞれ39本・38本のホームランを放ち才能が開花した。2003年には、先頭打者ホームランの1シーズン記録となる13本塁打も記録している。ヤンキース在籍5シーズンで通算98本塁打、270打点を記録。
2004年にアレックス・ロドリゲスがヤンキースへ移籍した大型トレードにともないテキサス・レンジャーズに移籍した。レンジャーズでは当初、ソリアーノを駒にして投手陣の補強のためにニューヨーク・メッツとの間で再度のトレードを行うことを検討していたが、これは実現しなかった。また、この移籍の際にこれまで1978年生まれとされていたプロフィールが誤りで、実は1976年生まれであることが発覚した。
2004年5月8日のデトロイト・タイガース戦では、レンジャーズ球団史上初となる9イニングで6本のヒットを打った。2004年のオールスターゲームではファン投票トップで選出され、先発2塁手として出場した。初回にロジャー・クレメンスから3ランホームランを放ち、オールスターMVPにも選ばれた。
2005年はテキサス・レンジャーズ史上初、自身3度目の30本塁打30盗塁(36本塁打30盗塁)を達成。
2005年12月13日にブラッド・ウィルカーソン外野手、ターメル・スレッジ外野手及びマイナーの投手との1対3の交換トレードでナショナルズへ移籍。ナショナルズには堅守の正二塁手ホセ・ビドロ内野手がいたため、ソリアーノは外野手(左翼手)へコンバートされた。
しかし、2006年3月20日のオープン戦ではレフトの守備を拒否し、試合出場をボイコットした。これに対して、球団側は契約違反であるとして「今後、指示に従わない場合は給料の支払いをストップする」などの強硬手段をとると通告した。このため、一時は「メッツがソリアーノと松井稼頭央のトレードに関心」と報道される騒ぎになった。しかし、3月22日のオープン戦で初めて1番レフトで出場し、コンバートを受け入れたため騒動はひとまず決着した。
2006年はソリアーノにとって記録尽くしの年となった。俊足を活かして強打の1番打者に定着したソリアーノは順調に本塁打と盗塁を積み重ねた。8月18日、フィラデルフィア・フィリーズ戦で30個目の盗塁を決め、39本塁打と合わせて自身4度目の30本塁打30盗塁を達成。8月25日のアトランタ・ブレーブス戦では、通算200個目の盗塁を決め、メジャー史上最速の929試合目で200本塁打200盗塁を達成した。これは、1993年にエリック・デービス(元シンシナティ・レッズほか)が残した1053試合目での記録を大きく更新している。そして、9月16日のミルウォーキー・ブリュワーズ戦で、自身初、メジャー史上4人目の40本塁打40盗塁を達成した。また、二塁打も40本以上記録し、メジャー史上初の40本塁打40盗塁40二塁打全てを同時に達成した選手になった。本塁打数で初の40本台の大台に乗せ自己最多を更新するなど、充実したシーズンとなった。
同年オフにシカゴ・カブスにFA移籍した。年俸は8年総額1億3,600万ドル(約160億円)という史上5番目の大型契約となる。移籍先のカブスでは、中堅手にコンバートされることとなった。
[編集] エピソード
広島東洋カープの二軍にいた頃、あまりの空腹に耐えかねて、寮の周りにいたハトを食べようとしたらしい。周囲に「ピースバード!(平和の鳥)」と説得されたとのこと。
[編集] 獲得タイトル
[編集] 年度別打撃成績
- 日本
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 広島 | 74 | 9 | 17 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .118 |
- アメリカ
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 三振 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
1999 | NYY | 9 | 8 | 2 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 3 | .125 | .125 | .500 |
2000 | NYY | 22 | 50 | 5 | 9 | 3 | 0 | 2 | 3 | 2 | 1 | 15 | .180 | .196 | .360 |
2001 | NYY | 158 | 574 | 77 | 154 | 34 | 3 | 18 | 73 | 43 | 29 | 125 | .268 | .304 | .432 |
2002 | NYY | 156 | 696 | 128 | 209 | 51 | 2 | 39 | 102 | 41 | 23 | 157 | .300 | .332 | .547 |
2003 | NYY | 156 | 682 | 114 | 198 | 36 | 5 | 38 | 91 | 35 | 38 | 130 | .290 | .338 | .525 |
2004 | TEX | 145 | 608 | 77 | 170 | 32 | 4 | 28 | 91 | 18 | 33 | 121 | .280 | .324 | .484 |
2005 | TEX | 156 | 637 | 102 | 171 | 43 | 2 | 36 | 104 | 30 | 33 | 125 | .268 | .309 | .512 |
2006 | WAS | 159 | 647 | 119 | 179 | 41 | 2 | 46 | 95 | 41 | 67 | 160 | .277 | .351 | .560 |
Total | ' | 961 | 3902 | 624 | 1091 | 240 | 18 | 208 | 560 | 210 | 224 | 836 | .280 | .325 | .510 |