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ロジャー・クレメンス
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|
守備位置 |
投手(先発) |
所属球団 |
ヒューストン・アストロズ |
背番号 |
22 |
日本でのキャリア |
なし |
アメリカでのキャリア |
1984- |
誕生日 |
1962年8月4日 |
身長 |
193 cm |
体重 |
106.6 kg |
打席 |
右 |
投球 |
右 |
出身校 |
テキサス大学 |
年俸 |
$ |
出身地 |
オハイオ州デイトン |
前所属球団 |
ニューヨーク・ヤンキース |
MLBデビュー年 |
1984年5月15日 |
ニックネーム |
ロケット |
Template |
ウィリアム・ロジャー・クレメンス(William Roger Clemens, 1962年8月4日 - )はアメリカメジャーリーグ、ヒューストン・アストロズの投手。右投右打。150km/hを越える球速とその力強い弾道、育った場所がNASAの連絡基地のあるヒューストン近郊という事からロケットと呼ばれる。1980年代から2000年代に渡りメジャーを代表する投手の一人。歴代最多7度のサイ・ヤング賞を受賞し、多くの野球解説者から大リーグ史上5本の指に入る投手といわれる。 44歳になった2006年シーズンオフ現在フリーエージェント。
[編集] 略歴
[編集] プロ入りまで
- クレメンスが幼児期の頃に両親は離婚。母親はすぐにウッディー・ボウワーと再婚し、今でもクレメンス本人は彼を父親として敬っているが、9歳の頃に死去。後々クレメンスは、他の選手が父親をクラブハウスに招いているのを見てうらやましいと言述している。1977年までオハイオ州デイトンに住んだ後、高校時代をテキサス州で過ごす。同州ヒューストンのスプリング・ウッズ高校ではアメリカン・フットボール、バスケットボール、そして野球の3種目でスターとして活躍する。野球では一塁手と投手でテキサス州選抜に選ばれ、3年次にはフィラデルフィア・フィリーズとミネソタ・ツインズから誘いを受けるが、断り大学に進学。大学ではアメリカン・フットボールのディフェンシブとして1つ、バスケットボールのセンターとして2つの推薦を受けるものの、大学では野球を続ける事を選択。
- 1981年にはサン・ヤシント・ジュニアカレッジで9勝2敗の成績を挙げ、全米選抜に選ばれる。同年ニューヨーク・メッツにドラフト12位(全米288位)で指名されるがこれを拒否。1982年から進学したテキサス大学では2年間で25勝7敗、275イニングを投げ、奪三振241を記録。1983年に全米大学野球選手権で優勝し、当時付けていた背番号21は同大最初の永久欠番となっている。それまで全米一の大学野球選手に与えられていたロータリー・スミス賞は2004年よりクレメンスの功績を称えてロジャー・クレメンス賞と改名された。
[編集] ボストン時代(1983-1996)
[編集] トロント時代(1997-1998)
- 1996年オフ、ワールドシリーズ出場の可能性を求めて、長年過ごしたボストンを離れることを決意し、積極的な補強を進めていたブルージェイズへ移籍した。2年プレーし、両年ともサイ・ヤング賞、20勝、そして投手三冠(勝数、防御率、奪三振)を達成。この2年間はクレメンスのキャリアの中でも特筆すべき2年間とも言われているが、チーム全体としては期待を大きく裏切る結果でプレーオフ進出も果たせなかった。
- ブルージェイズとしての初めてのフェンウェイ・パークでの登板では印象的な結果を残した。8回を4安打1失点に押さえ、24個のアウトのうち16個が三振で、対戦した打者全員から最低一回は三振を奪った。
- 1996年の“全盛期を過ぎた”発言はクレメンスが活躍を続けるにつれて皮肉度を増していき、ドュケットの進退問題にまで発展した。2006年終了時点で、ボストンを去ってからのクレメンスの通算成績は156勝67敗である。
[編集] ニューヨーク時代(1999-2003)
- 1998年オフ、再度新天地を求め、デイビッド・ウェルズ、ホーマー・ブッシュ、グリーム・ロイドとの1対3のトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍。1999年と2000年には念願であったワールドシリーズ制覇を果たす。
- 1999年、MLBオールセンチュリー・チームにグレッグ・マダックスと共に現役投手として選ばれている。
- 2000年のシーズンにはニューヨーク・メッツの捕手マイク・ピアッツァとの不仲が伝えられる。2000年7月8日のメッツ戦で、クレメンスはピアッツァの頭に死球を与えてしまう。以前からピアッツァはクレメンスとの対戦成績が非常によく、一ヶ月前にも満塁本塁打を彼から打ったばかりなのでその恨みであったのだろうとの推測を受けた。この出来事とその後はメディアで大きく報じられ、ピアッツァはクレメンスを大きく批判。その一方で、自軍の正捕手に死球が与えられても報復死球を行わなかったメッツにも矛先が向かった。そしてそのシーズンでヤンキースとメッツがワールドシリーズで対戦する事になると、この2人の因縁に注目する人は多かった。
- クレメンスが先発登板した第2戦のピアッツァの第1打席ではバットが折れ、その部分がクレメンスに向かって飛んできた。彼はそれを拾い、ピアッツァが走っていた一塁線に向かって投げつけた。バットの破片はピアッツァには当たらなかったものの、両軍のベンチが飛び出し大乱闘になった。クレメンスは後に、彼は破片をボールと間違えて投げたと述べたが、普通一塁にボールを転送する際とは投げる方向が全く異なっていたため、これを信じる人は少なかった。メッツの投手アル・ライターは、「もし彼が本当に間違えたのだったら、ティノ(・マルティネス、ヤンキースの一塁手)に破片を投げつけるべきではなかったのかい?」と皮肉った。
- この様な頻繁な因縁のぶつかり合いにも関わらず、両者は特に積極的に争いを展開させる気は薄かった。ボストン・グローブ紙の記者はこの両者の争いを二人の学校の番長に例え、喧嘩を怖がっているもののやらざるをえなくなって困惑している、と述べた。この試合でクレメンスに退場は告げられなかったものの、罰金5万ドルが課せられた。この試合、彼はメッツを8回2安打無失点9奪三振に抑えた。
- 2001年、クレメンスは史上初めて1敗しかせずに20勝を挙げ、結局その年成績は20勝3敗となり自身6度目のサイ・ヤング賞を受賞した。
- 2002年6月15日にピアッツァとのトラブルが起きて以来初めてシェイ・スタジアムで登板した。ナショナルリーグでの試合という事は、クレメンス自身も打席に立つことになり、これはメッツにとってクレメンスに“復讐”を果たす良い契機であった。大方の予想だとクレメンスは死球を受けるという事であったが、現実には異なった。メッツの先発投手ショーン・エステスの投球はクレメンスの背中の後ろを通り抜け、観客の失望とともに審判から警告を受けた。この警告のお陰でクレメンスに死球を与える事は事実上できなくなったが、この試合でメッツは4得点を挙げ、しかもピアッツァとエステスはクレメンスから本塁打を打ち違った方法での復讐を遂げた。
- 2003年の序盤にクレメンスはシーズン後の引退を発表。同年7月13日のヤンキー・スタジアムでのセントルイス・カージナルス戦で300勝と4000奪三振をエドガー・レンテリアから奪い、この2つの記録を同一試合で達成した唯一の選手となった。この300勝は4度目のチャレンジで達成したものであり、そのうちの2回ではヤンキースの中継ぎが打ち込まれてしまい勝ち星が消えてしまっていた。300勝を挙げたのは史上21人目であり、4000奪三振はノーラン・ライアン、スティーブ・カールトンに次ぐ史上3人目であった。このシーズン終了時点でのクレメンスの通算成績は310勝160敗に4099奪三振であった。
- クレメンスの2003年シーズン終盤は幾度と無く引退に関連付けたイベントが開催され、ホーム・アウェイ問わず盛大な歓声で迎えられていた。特に長年ホームとしていたフェンウェイ・パークでの最終登板では中々歓声が鳴り止むことは無かった(ヤンキースはこの年レッドソックスとア・リーグ優勝決定シリーズで再戦する事になったため、2回の“最終登板”があった)。また、レギュラーシーズン最終戦ではヤンキースの代理監督としても采配を振るった。フロリダ・マーリンズと対戦したワールドシリーズでは一度先発登板し、降板時は1-3で負けていた。降板する際にはマーリンズ側でさえベンチから全員フィールド上に出てスタンディング・オベーションで偉大な投手が現役を去るのを見送っていた。
[編集] ヒューストン時代(2004- )
- クレメンスは結局引退を撤回し、故郷テキサスのヒューストン・アストロズと一年契約を2004年1月12日に結んだ。これは、地元の家族とそばにいるためと、同じくヤンキースから移籍したアンディ・ペティットともう一度野球をやりたかったからと本人は言っている。同年5月5日には4137個目の三振を奪い、カールトンを抜き去り歴代最多奪三振でライアンに次ぐ2位につく。この年18勝4敗をマークし、通算成績も328勝164敗に伸ばした。また、歴代最多(7度目)、最年長(42歳)、最多球団(4球団)でのサイ・ヤング賞受賞を達成した。両方のリーグでサイ・ヤング賞を受賞したのはゲイロード・ペリー、ペドロ・マルティネス、ジョンソンに並ぶ歴代4人目である。
- オフに再び引退をほのめかすが、またもや撤回。アストロズの1350万ドルのオファーに対し、クレメンス側は2200万ドルを要求。2005年1月21日に両者は1800万22ドルの契約に合意、年俸調停を避ける事に成功した。この契約によりクレメンスは一年ごとの契約金額でメジャー史上最高額の投手になった。また、その年で6番目に高給取りの選手にもなった。
- 2005年もクレメンスにとって素晴らしい一年となった。彼の挙げた防御率1.87はメジャー全体で一番低く、彼の現役生活でも一番低く、そしてナ・リーグ投手が挙げた物としてはライバルと言われている名投手グレッグ・マダックスが1995年に挙げたもの以来であった。しかし、13勝8敗しかマークできず、これはクレメンスの打線援護が余りにもなかったからだと言われている。アストロズ打線はクレメンス登板試合で平均3.5点しか打てず、その上32回の先発登板中9回も相手投手に完封されていた。アストロズはこのシーズン5試合ものクレメンス登板試合を0-1で落としており、4月には3連続も喫している。
- 近代野球において最も勝ち星を挙げている右投手である。2005年4月8日にシンシナティ・レッズから勝った事により近代野球の勝ち星数でカールトンに並び、また第2次世界大戦以降にキャリアが始まった投手としては最多となった。しかしそこからカールトンを抜くにはアストロズのひどい得点力に悩まされ一ヶ月かかった。5月9日にやっとマーリンズに勝った事により通算330勝目をマーク。近代野球でクレメンスより多くの勝ち星を挙げているのは左投手のウォーレン・スパーンのみである。また、カールトンを抜いた事により生存している野球選手の中でも最多勝利を挙げている事になった。現役投手でクレメンスを抜かす可能性を持っているのは現在333勝のマダックスのみであり、クレメンスより4年若い。
- 2005年の最終先発登板では、クレメンスは通算4500奪三振を記録。同年10月9日には1984年以来となるリリーフ登板を果たす。その試合の15回に代打として登場し、その後3イニングを投げアトランタ・ブレーブス戦の勝利に貢献した。これはメジャー史上最長のポストシーズンゲームとなり、18回まで続いた。勝ち星はクレメンスについた。
- ナ・リーグ優勝決定シリーズで勝った後、アストロズは2005年ワールドシリーズに進出。しかし、第1戦でクレメンスは2回しか持たず降板。初のワールドシリーズ進出となったアストロズだったが4連敗であっさり敗退。筋を痛めたことによりクレメンスの調子は決して良くなかった。
- 同年オフ、球団は高年俸・高年齢を理由に年俸調停を申請せず、クレメンスはフリーエージェントとなった。調停を申請しなかったアストロズはルール上、2006年5月1日まで再契約が出来なくなった。この時他にもテキサス・レンジャース、レッドソックス、ヤンキースらが契約に興味を示したものの、本人は2006 ワールド・ベースボール・クラシックで引退する事を示唆。同大会に集中するためとしてしばらく進退の公表を控えていたが、WBC2次ラウンド・メキシコ戦敗退後には「個人的には、現段階で『さようなら』だ」との発言をしていたため、引退が噂された。しかし、正式な引退発表は出されないままであった。
- 結局、2006年5月31日にアストロズで現役を続行することが決まり、1年契約で2200万0022ドル(約24億8000万円)もの巨額の契約を結んだ。ただし、シーズン途中からの入団となるため、実質的に受け取る額は約1200万ドルほどとみられる。契約額には"22"が二つ。記者会見の開始時刻も12時"22"分。さらにはメジャー復帰登板の予定日が6月"22"日と背番号にちなんで22づくしとなった。
- 2006年6月22日のツインズ戦で復帰を果たしたが、スーパールーキーのフランシスコ・リリアーノが相手投手で敗北を喫してしまう。2年連続で年俸に見合う勝ち星を挙げられず、7勝6敗の防御率2.30でシーズンを終えた。しかし、平均投球回数は6回を少し切る程度で、8回まで投げた事はなかった。
[編集] ポストシーズンでの活躍
- 1986年のア・リーグ優勝決定シリーズでは、第1戦に打ち込まれ、第4戦では自身が守り抜いた3-0のリードを救援陣が打ち込まれ、そして第7戦では好投してレッドソックスをワールドシリーズに導いた。この第7戦での勝利はクレメンスにとって人生初のポストシーズン勝利であり、2個目を挙げたのはその13年後であった。
- 1986年ワールドシリーズ第2戦では打ち込まれたものの、第6戦では再びマウンドに登り、その試合で本来ならばレッドソックスが勝つはずであった。7回を投げ3-2で勝っている所で降板したものの、延長10回で結局負けてしまい、ワールドシリーズ自体も敗退。この際のクレメンス降板が、結果的に後続が打たれた事から批判を浴びる対象となった。当時のレッドソックス監督ジョン・マクナマラはクレメンスの豆が潰れたため降板させたと述べているが、後年本人はそれを否定している。
- クレメンスのポストシーズンにおける最も大きな敗北は1990年ア・リーグ優勝決定シリーズ第4戦対オークランド・アスレチックスであり、その試合でクレメンスは審判と抗議した末退場処分をくらい、レッドソックスもその試合に負け4連敗で敗退してしまった。1991年シーズンの最初の5試合に出場停止処分を受け、また罰金1万ドルも課せられた。この他にも勝敗がつかない先発登板を1988年と1995年に経験しており、両方のシリーズでレッドソックスは4連敗を喫している。しかし、これらの成績を差し引いてもレッドソックスのエースはクレメンスだという事実は揺れ動かなかった。レッドソックスでのポストシーズンの通算成績は1勝2敗、防御率3.88に45奪三振である。
- 1999年のポストシーズンでヤンキースが唯一負けた試合はクレメンスが先発登板していたボストンとの試合(相手投手はマルティネス)であったが、その後クレメンスはポストシーズンでの成績も情報していく。ヤンキースでのワールドシリーズでは通算3勝0敗であり、その中には2000年メッツとのワールドシリーズで0勝2敗で、勝たなくてはいけない登板で勝った試合も含まれている。クレメンスのヤンキースでの通算成績は7勝4敗、防御率3,17に98奪三振である。
- アストロズでは、2004年ナ・リーグ優勝決定シリーズ第7戦対カージナルスでの敗戦投手であった。2005年のポストシーズンでの活躍は明暗がくっきり分かれてしまった。リリーフ登板してチームを救った試合もあれば、ワールドシリーズでは2回ですぐに降板してしまった。アストロズでのポストシーズンの通算成績は4勝2敗、防御率4.60で29奪三振である。
- 2006年シーズン終了現在、クレメンスのポストシーズンでの通算成績は33試合に先発し12勝8敗であり、防御率はシーズンの通算成績より0.5点以上も高い。
[編集] 論議
- クレメンスの投球の特徴は、内角にボールを投げる事を恐れないことである。最多死球になった事は1995年の一回だけだが、その他にも幾年に渡り上位にランクインしている。この傾向は特に若い頃に見られたものの、年を取るにつれ減ったきたといわれている。しかし、未だにこのイメージは強く、2000年のア・リーグ優勝決定シリーズ対マリナーズ戦で、ルー・ピネラ監督はクレメンスの事を「頭狩り」と呼んでいる。その年に発生したピアッツァとの死球を巡る騒動は様々な人の中に「決して謝らない」「ふてぶてしい」等の印象を植え付けてしまった。2006年シーズン終了現在、クレメンスの通算死球は歴代12位である。しかし、この記録は長く現役を続けていれば自然と増えてくる性質のものであるという議論もある。アストロズと契約する前はずっと投手が打席に立つ事のないア・リーグでプレーしていた事から、死球を与える事に対して何の感情も持っていない、と言われた事もある。クレメンス自身は2005年にキップ・ウェルズ、2006年にフアン・マテオから死球を受けている。
- クレメンスは長年に渡り歯に衣を着せぬ発言でも注目を集めている。自分で自分の荷物を空港で持たなければいけない事に文句を言ったり、本拠地であったフェンウェイ・パークを設備の老朽化から“平均以下の球場”と言述している。2006年4月4日に熱狂的だったWBCでの日本と韓国の応援についてのコメントを求められると、「皆日韓戦を見に行ったんだろうね、ドライクリーニング屋がどこも閉まっていた」と、人種差別的発言とも捉われかねない配慮に欠ける発言を行っている。また、彼の引退宣言はもはやオフ・シーズンの風物詩ともなっている。
[編集] 性格
- 強いプロ意識と厳しい鍛錬に裏打ちされたパワーと技術は高い評価を得ている。多くの投手がクレメンスに憧れ、手本としている。
- 同時に短気と荒い気性でも知られ、ビーンボール(故意の死球・危険球)を投げることで有名である。
- クレメンスには、人間としてより投手としての本能が勝っていることを示すエピソードがある。妻と遊びの野球ゲームをしていたとき、クレメンスの投げた山なりボールを妻がジャストミートし、ボールは遙か遠くへ飛んでいった。そしてクレメンスが次に放ったボールは全力剛速球のビーンボールであった。同様に2006年の春季キャンプ、ワールド・ベースボール・クラシックのための調整でマイナーリーグに登板した際に息子のコービー・クレメンス(当時1Aの選手、2005年ヒューストン・アストロズに8位(全米254位)で指名され入団した。)に本塁打をされると、やはり次の打席での彼に対する初球はビーンボールであった。バッターが誰であろうと、打たれることを絶対に許さないというクレメンスの闘争本能を示すエピソードである。
- 三振には特に強いこだわりがあり、4人の子供の名前の頭文字はいずれもスコアブックで三振を意味する「K」となっている(コービー(Koby)、コーリー(Kory)、ケイシー(Kacy)、コーディー(Kody))。
[編集] 主な投球、打撃について
- クレメンスの持ち球は150キロ台の速球とよく落ちるスプリット。たまにカーブも混ぜて投げる。日頃からの節制・鍛錬(彼がよく言う"hard work")の結果、速球は40歳を超えた今でも球威は十分である。打撃は意外に得意で、大きい体を揺さぶりながら走る。
[編集] 縁の無い記録
- これほどの輝かしい成績を残しているにも関わらず、不思議なことにノーヒット・ノーランや完全試合には縁が無い。30代後半以降は完投もほとんど無いため、現役引退までに達成できるかは微妙である。
[編集] 引退宣言 そして撤回
- 2003年、通算300勝を達成したクレメンスは現役引退を表明する。ところがシーズンオフに「99%」と語っていた引退を撤回。故郷テキサスのヒューストン・アストロズと電撃的に契約を結ぶ。
- 2004年は一度引退を表明した選手とは思えないすばらしい成績を残す。そしてオフ、クレメンスは再び「99.9%引退する」と宣言する。しかし、その後FAを宣言したり、年俸調停で球団側に2200万ドル(約22億6000万円)を提示するなど現役続行への動きを見せ、2005年1月22日に投手としては史上最高額となる1800万ドル(約18億5000万円)の一年契約を結んだ。これは野手を含めても史上4位タイの高額契約だった。
- 彼がたびたび引退を仄めかすのには理由がある。最愛の母・ベスが病気がちな上、かなりの高齢であるため、生きているうちに殿堂入りをする自分の姿を母に見せてあげたいと思っていたからであった(引退後5年を経過しなければ殿堂入りの資格は得られない)。そのため、オフのたびに現役続行か引退かで心が揺れ動いていた。そして、2005年9月14日午前4時30分ごろ、息子の殿堂入りを見届けることなくクレメンスの母はこの世を去った(享年75)。当日先発予定だったクレメンスは「前の晩、母に『仕事に行きなさい』と言われた」と、母の死を見届けた後、予定通りに先発登板。ワイルドカードを争うマーリンズを7回途中、1失点に抑え12勝目。通算340勝目を天国の母へ捧げた。
- その後も2005年のシーズンオフにアストロズを自由契約となった後、WBC2次リーグ敗退の際「現時点では『さよなら』だ」という引退表明とも取れるコメントを残したが、2006年5月31日に2200万0022ドル(約24億8000万円)でアストロズと1年契約ながら再契約を結び、6月22日に再契約後初登板を行った。
[編集] その他
- 打撃時の入場に用いている曲はLinkin Parkの『Faint』である。
- 過去に伊良部秀輝がテレビで、デイビッド・ウェルズ、デイビッド・コーンとともに腕のフリがみにくく、キャッチボールの段階から凄かったと証言した。
[編集] トリビア
- 2004年にオールスターで両方のリーグから先発するのは史上3人目となった。過去の二人はブルーとジョンソンであり、クレメンス自身は1986年にア・リーグのレッドソックスから、2001年には同じくア・リーグのヤンキースから、そして2004年にナ・リーグのアストロズから先発登板した。
- ヤンキースに移籍した際、背番号22が空くまでごく一時的に12を付けていた。
- かつてはマサチューセッツ州フラミンガムに住んでいた。
- メジャー初打席となった1996年5月23日のマリナーズ戦で、ノーム・チャールトンから初安打を放った。これはフェンウェイ・パークで起きた出来事で、ホセ・カンセコが指名打者から外野へと守備位置を変更したためクレメンスに打席が回ってきた。1986年のワールドシリーズでも4回打席に立ってるが、その時は無安打であった。
[編集] 獲得タイトル
[編集] 年度別成績
年度 |
チーム |
勝利 |
敗戦 |
防御率 |
試合 |
先発 |
セーブ |
イニング |
被安打 |
失点 |
自責点 |
被本塁打 |
四球 |
奪三振 |
1984 |
BOS |
9 |
4 |
4.32 |
21 |
20 |
0 |
133.1 |
146 |
67 |
64 |
13 |
29 |
126 |
1985 |
BOS |
7 |
5 |
3.29 |
15 |
15 |
0 |
98.1 |
83 |
38 |
36 |
5 |
37 |
74 |
1986 |
BOS |
24 |
4 |
2.48 |
33 |
33 |
0 |
254.0 |
179 |
77 |
70 |
21 |
67 |
238 |
1987 |
BOS |
20 |
9 |
2.97 |
36 |
36 |
0 |
281.2 |
248 |
100 |
93 |
19 |
83 |
256 |
1988 |
BOS |
18 |
12 |
2.93 |
35 |
35 |
0 |
264.0 |
217 |
93 |
86 |
17 |
62 |
291 |
1989 |
BOS |
17 |
11 |
3.13 |
35 |
35 |
0 |
253.1 |
215 |
101 |
88 |
20 |
93 |
230 |
1990 |
BOS |
21 |
6 |
1.93 |
31 |
31 |
0 |
228.1 |
193 |
59 |
49 |
7 |
54 |
209 |
1991 |
BOS |
18 |
10 |
2.62 |
35 |
35 |
0 |
271.1 |
219 |
93 |
79 |
15 |
65 |
241 |
1992 |
BOS |
18 |
11 |
2.41 |
32 |
32 |
0 |
246.2 |
203 |
80 |
66 |
11 |
62 |
208 |
1993 |
BOS |
11 |
14 |
4.46 |
29 |
29 |
0 |
191.2 |
175 |
99 |
95 |
17 |
67 |
160 |
1994 |
BOS |
9 |
7 |
2.85 |
24 |
24 |
0 |
170.2 |
124 |
62 |
54 |
15 |
71 |
168 |
1995 |
BOS |
10 |
5 |
4.18 |
23 |
23 |
0 |
140.0 |
141 |
70 |
65 |
15 |
60 |
132 |
1996 |
BOS |
10 |
13 |
3.63 |
34 |
34 |
0 |
242.2 |
216 |
106 |
98 |
19 |
106 |
257 |
1997 |
TOR |
21 |
7 |
2.05 |
34 |
34 |
0 |
264.0 |
204 |
65 |
60 |
9 |
68 |
292 |
1998 |
TOR |
20 |
6 |
2.65 |
33 |
33 |
0 |
234.2 |
169 |
78 |
69 |
11 |
88 |
271 |
1999 |
NYY |
14 |
10 |
4.60 |
30 |
30 |
0 |
187.2 |
185 |
101 |
96 |
20 |
90 |
163 |
2000 |
NYY |
13 |
8 |
3.70 |
32 |
32 |
0 |
204.1 |
184 |
96 |
84 |
26 |
84 |
188 |
2001 |
NYY |
20 |
3 |
3.51 |
33 |
33 |
0 |
220.1 |
205 |
94 |
86 |
19 |
72 |
213 |
2002 |
NYY |
13 |
6 |
4.35 |
29 |
29 |
0 |
180.0 |
172 |
94 |
87 |
18 |
63 |
192 |
2003 |
NYY |
17 |
9 |
3.91 |
33 |
33 |
0 |
211.2 |
199 |
99 |
92 |
24 |
58 |
190 |
2004 |
HOU |
18 |
4 |
2.98 |
33 |
33 |
0 |
214.1 |
169 |
76 |
71 |
15 |
79 |
218 |
2005 |
HOU |
13 |
8 |
1.87 |
32 |
32 |
0 |
211.1 |
151 |
51 |
44 |
11 |
62 |
185 |
2006 |
HOU |
7 |
6 |
2.30 |
19 |
19 |
0 |
113.1 |
89 |
34 |
29 |
7 |
29 |
102 |
Total |
' |
348 |
178 |
3.10 |
691 |
690 |
0 |
4817.2 |
4086 |
1833 |
1661 |
354 |
1549 |
4604 |