アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)
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アルフレート(Alfred, 1844年8月6日 - 1900年7月30日)は、第3代ザクセン=コーブルク=ゴータ公(在位:1893年 - 1900年)。全名はドイツ語でアルフレート・エルンスト・アルベルト(Alfred Ernst Albert)もしくは英語でアルフレッド・アーネスト・アルバート(Alfred Ernest Albert)。ニックネームはアッフィ(Alfie)。ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルベルト(英語名アルバート)とその妻であったイギリス女王ヴィクトリアの次男。イギリス王族としてエディンバラ公にも叙されていた。
アルフレッドは1844年8月6日、ヴィクトリアと王配アルバートの間に第四子としてウィンザー城(イングランドのバークシャー州)で生まれた。1856年にアルフレッドはイギリス海軍に入隊した。1867年から翌年にかけて世界一周航海を行い、途中イギリス王子として初めてオーストラリアに上陸している。
1862年にアルフレッドは廃位されたオソン1世に代わってギリシャ王に推されたが、母らの反対にあって辞退した(結局デンマーク王クリスチャン9世の王子ヴィルヘルムがゲオルギオス1世として王位に即いた)。
アルフレッドは1874年1月23日にロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリヤ(1853年 – 1920年)と結婚した。
1893年8月23日に伯父のザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世が死去した。エルンスト2世には子供がなく、その弟である父アルバートはすでに死去しており、兄のウェールズ公アルバート・エドワード(後のイギリス王エドワード7世)も公位継承権を放棄していたため、アルフレッドはザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートとなった。はじめは外国人として嫌われたものの、アルフレートは我を主張せずに現地のやり方を尊重し――最期まで片言のドイツ語しか話せなかったにも拘らず――徐々に国民の支持を集めるようになった。
アルフレートは1900年7月30日にローゼナウ城(現バイエルン州オーバーフランケン県コーブルク郡)で死去した。唯一の男子、ケント伯アルフレッドは1899年に自殺しており、最年長の弟コノート公アーサーとその息子も公位継承権を放棄したため、末弟オールバニ公レオポルドの遺児であるオールバニ公チャールズ・エドワードがザクセン=コーブルク=ゴータ公を継承した(ザクセン=コーブルク=ゴータ公としてはカール・エドゥアルト)。エディンバラ公は継承されなかった。
[編集] 子女
妃のマリヤとの間には、以下の一男四女をもうけた。名前は全て英語名で記載。
- アルフレッド・アレグザンダー・ウィリアム・アーネスト・アルバート(1874年 - 1899年、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子、ケント伯)
- マリー・アレグザンドラ・ヴィクトリア(1875年 - 1938年、ルーマニア王フェルディナンド1世妃)
- ヴィクトリア・メリタ(1876年 - 1936年、ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ妃、のちロシア大公キリル妃)
- アレグザンドラ・ルイーズ・オルガ・ヴィクトリア(1878年 - 1942年、ホーエンローエ=ランゲンブルク侯エルンスト妃)
- 子(1879年 - 1879年)
- ベアトリス・レオポルディン・ヴィクトリア(1884年 - 1966年、ガリエラ公アルフォンソ妃))
[編集] 関連項目
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カテゴリ: ザクセン=コーブルク=ゴータ公 | イギリス王室 | ザクセン=コーブルク=ゴータ家 | 1844年生 | 1900年没