アレクサンドル・ポポフ (競泳選手)
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男子 競泳 | ||
金 | 1992 | 男子 50m 自由形 |
金 | 1992 | 男子 100m 自由形 |
金 | 1996 | 男子 50m 自由形 |
金 | 1996 | 男子 100m 自由形 |
銀 | 2000 | 男子 100m 自由形 |
アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・ポポフ(Александр Владимирович Попов , Alexander Vladimirovich Popov 1971年11月16日 - )は、ロシアの競泳選手。夏季オリンピックで合計4個の金メダルを獲得し、1990年代に最も活躍した競泳選手の一人である。
[編集] 経歴
ソビエト連邦のスヴェルドロフスク(現在のエカテリンブルク)で生まれた。8歳の時に水泳を始めたが、当時は水に恐怖心を抱いていた。しかし、彼の父が水泳の訓練を受けるように強く言ったため、彼は「以来ずっとやらされた」と語った。ポポフは当初は背泳ぎ選手だったが、ゲンナジー・トゥレツキー(Gennadi Touretski)がコーチするチームに入ってからは自由形に転向した。以降、彼はコーチについていくため、ロシアからオーストラリアに訓練の地を移した。
ポポフは1992年のバルセロナオリンピックでは50mと100m自由形で優勝し、1996年のアトランタオリンピックでは、前回と同じ2種目で連覇を果たした。同種目ではジョニー・ワイズミュラー以来の快挙であった。彼は、アトランタオリンピックの100m自由形で獲得した金メダルをゲンナジー・トゥレツキーに贈り、次のように言った。「私は優勝というタイトルを持っており、また新聞にも載ったが、あなたも知っているようにゲンナジーはアトランタやバルセロナから何も得ていない。」「しかし、私はこのメダルの意味が彼にとってどれだけ大きく、そしてこの価値は彼のためにあることを知っている。」
アトランタオリンピックの一ヶ月後、彼はモスクワの露天商人3人と言い争いになった際に腹部をナイフで刺された。ナイフは動脈を切り、腎臓のうち一つを擦りながら胸膜(肺を覆う膜)に損傷を与えた。その後、集中治療室に入れられ、リハビリに3ヶ月を要した。翌1997年のヨーロッパ水泳選手権に彼は出場し、50mと100m自由形のタイトルを防衛した。彼は、「私の魂は傷つかなかった。私の脳も傷つかなかった。傷ついたのは肉体だけだ。」と語った。
2000年のシドニーオリンピックでは、ポポフは100m自由形でピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドにタッチの差で敗れ2位となった。また、50m自由形は6位で終え、50mまたは100mにおけるオリンピック史上初の3連覇の夢は破れた。ポポフ潔くで負けを認めた。「世界が終わりになったわけではない」「すべてに勝つことはできない、私は(勝利を)分けなければならない。」
2003年の世界水泳選手権は、バルセロナで開催された。ポポフにとってバルセロナはすべてが始まった原点(バルセロナオリンピック)として、特別であった。彼は、50mと100mの自由形を再び制した。そして、2004年のアテネオリンピックに出場することを表明した。しかし彼は、アテネのプールでは、すでに最年長の選手になっており、金メダルは彼から遠く逃げていった。
1999年12月に国際オリンピック委員会(IOC)の委員に選出された。また、IOCの内部委員会の一つである 「Sport for All Commission(みんなのスポーツ委員会)」のアスリート代表や、「Athlete Commission(スポーツ選手委員会)」の7人のうちの一人を務めた。「Athlete Commission 」は1996年と2000年のオリンピックで選出され、その後名誉幹事となった。
1996年には、スポーツへの貢献からロシアの名誉勲章を受けた。また、1996年にはロシア・アスリート・オブ・ザイヤーとヨーロッパ・スポーツ記者連合・アスリート・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
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