アレクサンドル・ヴァシレフスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ヴァシレフスキー(ワシレフスキー、Алекса́ндр Миха́йлович Василе́вский, Aleksandr Mikhaylovich Vasilevsky,1895年9月30日 - 1977年12月5日)は、ソ連軍司令官。ソ連邦元帥(1943年)。ソ連邦英雄(2度)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 出自
イワノフ州キネシェムスキー地区ノーヴァヤ・ゴリチハ村出身。1915年2月、アレクセーエフ軍事学校に入校し、戦時の速成教育のため4ヶ月で卒業した。卒業後、准尉としてノヴォホペル連隊に入隊し、革命までに大尉、大隊長に昇進していた。
[編集] 両大戦間
1919年、予備連隊の副小隊長として赤軍に入隊し、間もなく、中隊長、大隊長となった。第11ペトログラード狙撃師団第429狙撃連隊副連隊長として、白衛ポーランド軍と戦う。その後、第48狙撃師団長。
1931年5月、労農赤軍戦闘訓練局に移り、縦深戦闘戦術の立案に参加。この頃、ゲオルギー・ジューコフと知り合う。1931年~1936年、国防人民委員部参謀勤務学校を経て、沿ヴォルガ軍管区参謀部で勤務。
1936年秋、創設されたばかりの参謀本部アカデミーに入校。その後、参謀本部アカデミーの講座長を務め、1937年10月、参謀本部勤務に戻る。参謀本部では、ボリス・シャポシニコフの庇護を得、ヨシフ・スターリンにも紹介された。1940年5月、参謀本部作戦局副局長。ドイツ派遣のソビエト政府代表団に加わる。
[編集] 独ソ戦
第二次世界大戦勃発後、1941年秋に参謀次長/作戦局長に任命され、モスクワの防衛を準備し、12月1日にはドイツ軍に対する逆襲計画を立案した。
1942年初め、モスクワの防衛成功に気を良くしたスターリンは、全戦線で攻勢に転移することを決定した。シャポシニコフ参謀総長とヴァシレフスキーは、これに反対したがこれを止めることはできなかった。赤軍の攻勢は失敗し、同年春、シャポシニコフは体調を崩し、ヴァシレフスキーが参謀総長代行となった。同年6月24日、ヴァシレフスキーは正式に参謀総長となった。スターリングラード攻防戦時、同方面の3個戦線の行動を調整し、勝利に導いた。
1943年2月16日、ソ連邦元帥に昇進(開戦時は少将に過ぎず、昇進の速さはジューコフに次ぐ)。同年夏、ソ連はドイツ軍のクルスク攻勢を察知し、ジューコフと共に防衛計画を立案した。
1944年春まで南部と南西戦線(後に第3と第4ウクライナ戦線)の行動を調整した。セヴァストポリ攻略時、乗車していた車が触雷し軽傷を負い、久しぶりにモスクワで休暇を取ることができた。バグラチオン作戦時、第1沿バルトと第3白ロシア戦線の行動を調整し、その功績によりソ連邦英雄の称号を授与された。
1945年2月、第3白ロシア戦線司令官I.チェルニャホフスキーの戦死後、ヴァシレフスキーはその後任となった。間もなく、第1沿バルト戦線も彼の指揮下に入り、東プロイセン・ケーニヒスベルクを奪取した。ドイツ降伏後、戦勝記念観閲式に参加した。
[編集] 日ソ戦
その後は、対日参戦をにらんで、関東軍の撃破計画の立案に従事した。1945年6月末には極東に派遣され、7月にヴァシレフスキーは極東ソ連軍総司令官に任命された。8月8日、ソ連が対日宣戦布告をすると、翌9日にソ満国境を越え、関東軍を撃破した。
[編集] 戦後
1946年3月、参謀総長、後に軍事相に任命された。
1977年12月5日、死去。遺骸は、赤の広場のクレムリンの壁に埋葬された。
[編集] パーソナル
ソ連邦英雄(2度)。「勝利」勲章2個、レーニン勲章8個、十月革命勲章、赤旗勲章6個、一等スヴォーロフ勲章、赤星勲章、三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章を受賞。
息子のユーリー(1925年 -)は、退役航空中将。
|
|
|
|
|
|
|
|
カテゴリ: ソビエト連邦の軍人 | ソビエト連邦の政治家 | 1895年生 | 1977年没