アレン・アイバーソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
男子 バスケットボール | ||
銅 | 2004 | バスケットボール |
アレン・アイバーソン(Allen Ezail Iverson, 1975年6月7日 - )は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。ヴァージニア州ハンプトン出身。アメリカ男子プロバスケットボールリーグNBAのデンバー・ナゲッツに所属している。ポジションはガード。「A.I.」、「THE ANSWER」の愛称を持つ。身長183cm。背番号は「3」。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1975年6月7日にアン・アイバーソンとアレン・ブロートンの間に生まれた。アレンという名前は父親の名前から取られた。生後しばらくは祖母の家で13人の同居人と共に暮らしていた。その後ブロートンは逮捕され、アン・アイバーソンは祖母の家を出てマイケル・フリーマンと結婚した。それから2人の妹が生まれたが、フリーマンはドラック所持容疑で捕まり、生活は水道や電気が止められ苦しい状況に陥った。
高校は地元バージニア州のべセル高校に入学。バスケットボールとアメリカンフットボールの2種目でバージニア州のスタープレーヤーとして名を馳せた。アメフトではクォーターバック、ディフェンスバック、パントリターナーとして活躍、高校2年のシーズンにタッチダウン34回(パスで14回、ランで15回、リターンで5回)をあげてチームを州チャンピオンに導き、その後はバスケに専念することを決め、こちらでもチームを州チャンピオンに導いた。この時、どちらの種目でも州のMVPに選出されている。
当時は全米中の大学からスカウトの話があり、卒業後は名門ケンタッキー大学への進学がほぼ決定していたが、ボーリング場で白人グループ対黒人グループの乱闘事件に巻き込まれて逮捕され、懲役15年の有罪判決が下されたことで、進学の話は白紙となった。このことはやがて全米の関心事となり、裁判がやり直され、約5ヶ月の服役後に釈放されたが(1995年に無罪が確定)、既に彼に対して奨学金を申し出る大学は、バスケでもアメフトでも皆無だった。しかし、服役中に母親がジョージタウン大学バスケットボール部ヘッドコーチのジョン・トンプソンに受け入れを嘆願したことで、最終的には奨学金を得て同大学へ進学できることとなった。
[編集] 大学時代
大学では1年生時に年間最優秀守備選手賞と新人王を獲得し、2年生ではオールアメリカンに加え、引き続き最優秀守備選手に選出された。とにかくその才能はずば抜けており、2シーズンでの1試合平均23得点、2年生のシーズンにマークした年間124スティールはチーム記録である。大学2年の時点で、すでに世界最高のポイントガードと評されることもあった。また、1995年に福岡で行われたユニバーシアードにアメリカ代表として参加し金メダルを獲得した。
家が貧しく、妹が病気だったこともあり、家計を助けるために2年を終えた時点でのNBA入りを表明した。
[編集] NBA
1996年のNBAドラフトでフィラデルフィア・セブンティシクサーズによって全体1位で指名された。史上最も身長が低いドラフト1位としても話題になった。
1996-97シーズン、ルーキーとしてNBA歴代6位の1試合平均23.5得点、同11位の7.5アシスト、同7位の2.07スティールを記録、新人記録となる5試合連続40得点の活躍などでルーキー・オブ・ザ・イヤー(新人王)、オールルーキー1stチームに選ばれた。アイバーソンの活躍によってシクサーズのチケットは飛ぶように売れた。ルーキーにも関わらずマイケル・ジョーダンと真正面から1対1をしかけるなど、度胸の強さを見せ付けた。一方で「ジョーダンであっても尊敬しない」というコメントは物議を醸した(後に「コート上で尊敬の念を持ちすぎるのはよくない。コートを離れれば尊敬している。」と釈明している)。
1997-98シーズンにラリー・ブラウンがヘッドコーチに就任し、得点は平均22点に落ちたものの、フィールドゴール成功率は向上し、チームも前年を上回る勝率を残した。
1998-99シーズン、ポイントガードからシューティングガードにコンバートされると更に得点を量産するようになり、平均26.8得点で初の得点王を獲得、オールNBA1stチームにも選ばれた。またプレイオフにも初めて出場。1回戦のオーランド・マジック戦では、第3戦にプレイオフ記録の10スティールを奪うなど活躍し、アップセットの原動力となった。チームはカンファレンスセミファイナルまでコマを進めた。
1999-2000シーズン、平均得点を28.4まで伸ばし、初のオールスター、オールNBA2ndチームに選出されるも、プレーオフでは2年連続でインディアナ・ペイサーズに歯が立たず、最後の試合終了後には悔し泣きする姿がみられた。
2000-01シーズンは平均31.1得点を記録して再びの得点王、そしてスティール王に輝き、加えてオールスターMVP、シーズンMVPも受賞するなど、まさに破竹の勢いであった。プレーオフに進んでも、2ndラウンド第2戦(対トロント・ラプターズ)でプレイオフのチーム記録となる54得点、第5戦でマイケル・ジョーダン以来の同一シリーズでの50得点超えとなる52得点を記録。カンファレンスファイナルでは大学時代からのライバル、レイ・アレンの率いるミルウォーキー・バックスと7戦までもつれる死闘を展開、第7戦では口内の流血を隠しながらプレーを続け(出血がある選手の出場は禁止されている)、第7戦における歴代4位タイとなる44得点を挙げて、チームを1983年以来のNBAファイナル進出に導いた。ロサンゼルス・レイカーズとのファイナルでは、第1戦、試合はオーバータイムまでもつれた末、マッチアップのティロン・ルーをクロスオーバードリブルで振り切って放ったジャンプシュートを決め勝負をモノにしたが、続く4試合を続けて落とし1勝4敗で敗退した。
2001-02シーズン、2年連続で得点王とスティール王となったが、チームはプレーオフ1回戦で敗退した。2002年2月に地元フィラデルフィアで行われたオールスターにはジュリアス・アービングが付けていた背番号「6」で出場した。
2002-03シーズン、キャリア初となる82試合フル出場を果たし、3年連続スティール王となったが、チームはプレーオフ2回戦で敗退した。
2003-04シーズン、肩や膝の怪我で34試合に欠場しフィールドゴール成功率は自己最低を記録した。チームはプレーオフ進出を逃した。
2004年オフ、アテネオリンピックに代表選手として出場したが、銅メダルに終わった。
2004-05シーズン、ポイントガードに戻り自己最高の平均7.9アシストを記録すると共に、自身4度目となる得点王のタイトルを獲得。4度の得点王はジョージ・ガービンと並んで史上3位タイである(その上には、マイケル・ジョーダンとウィルト・チェンバレンしかいない)。
チームは第7シードでプレーオフに進出するが、デトロイト・ピストンズ相手に1勝しか出来ず敗退した。
2005-06シーズン、得点は自己最高の1試合平均33得点、7.4アシストと奮闘するも、チームが結果的に効果の薄いトレードを繰り返したこともあり、自身の活躍が勝敗に結びつかない状況となっている。
2006年12月19日にアンドレ・ミラー、ジョー・スミス、2つの2007年のドラフト1巡目指名権と引き換えに、イヴァン・マクファーリンと共にシクサーズからデンバー・ナゲッツへ移籍した。その時点でNBA得点ランキングで2位であったが数試合欠場した上での移籍となり、プロ入り以来10年以上在籍したチームに別れを告げた。
2007年には通算20,000得点を達成した。
[編集] 主な受賞や記録
- シーズンMVP:2001
- 得点王:1999,2001,2002,2005
- スティール王:2001,2002,2003
- オールNBA
-
- 1stチーム:1999,2001,2005
- 2ndチーム:2000,2002,2003
- 3rdチーム:2006
- オールスター戦出場:2000,2001,2002,2003,2004,2005,2006
- オールスターMVP:2001,2005
- 新人王:1997
- オールルーキー1stチーム:1997
- オールスタールーキーチャレンジMVP:1998
- 得点、スティール、アシストの3部門で年間5位以内に入った史上3人目の選手
- 通算の1試合平均得点NBA歴代3位(28.0得点)
- プレイオフ通算の1試合平均得点NBA歴代2位(30.6得点)(1位はマイケル・ジョーダン)
[編集] ラリー・ブラウンとの関係
彼はコーチのラリー・ブラウンに絶大な信頼を置き、ブラウンの指導がなければ好成績を上げられなかっただろうとしばしば発言した。しかしながら、2人の関係には複雑なものがある。セブンティシクサーズが2002年のプレーオフ第1戦に敗退し、シーズンを通してたびたび練習をさぼっていたことをブラウンに非難された後、アイバーソンは記者会見で「たかが練習にそんなに力を入れるのはバカバカしい。いいかい、みんなが見てくれる実際の試合じゃなく、たかが練習だよ。(「たかが練習」と言葉を20回くらい連発)」と語った。このことは、後に有名なエピソードになった。
[編集] プレイスタイル
全身がバネといわれるほど優れた瞬発力の持ち主で、リーグ最高峰のスピードを誇る。加えて現役随一のドリブルテクニックを有しており、前後左右を縦横無尽に超高速移動するドライブは、2m級の選手を一瞬で置き去りにすることは勿論のこと、スピードがあり小回りがきく筈の身長180cm代の選手たちまでも翻弄する。更に、コートのどこからでも決められるシュートレンジの広さ、ヘリコプターショットなどの高度なフィンガーロール、軽々とダンクシュートをこなす跳躍力(高さ)も備える。これらの要素が、身長180cm台の選手としては破格の得点能力(1試合平均30得点前後)を生み出している。
彼のダブルクロスオーバーは、ティム・ハーダウェイが取り入れたキラークロスオーバーとは異なる部分が多い。
フェイントをかける方向のバリエーションや、フェイントの際に体を振る幅の大きさ、ドリブルのバリエーションの豊富さなどは、ハーダウェイのそれを上回る。
[編集] その他
- プレイオフでは2005-06シーズンまでで29勝34敗と負け越しており、カンファレンスファイナルに進出したのもNBAファイナルに進出した2001年の1回だけとイースタンカンファレンスのライバルチームに勝つことができないでいる。
- 2003年に、スラムマガジンSLAM Magazineで歴代top75プレーヤーの中の53位にランクされた。
- 体中に施した数多くのタトゥー、コーンロウ、ヘッドバンド、腕全体をサポートするシューティングスリーブなどは、若手選手のファッションに影響を与えた。
- アイバーソンは十代の頃から様々な事件に関与したと報道されたことがあった。ある時は家族でのパーティの最中に妻を銃で脅したという。
- バスケットボール以外では、ラッパーとして活動しているが、最初のアルバムは過激な歌詞を含んでいることが地元のフィラデルフィアで問題になり、自主的に発売を見合わせた。このように数々の問題行動で波紋を呼ぶアイバーソンだが、近年は精神的に安定感が増し、後輩にアドバイスを送ったり、仲間への感謝の念を述べるなどプレイスタイル同様、洗練さが増し評価が高まった。
- アメリカのスポーツ用品メーカー、リーボックと契約しており「I3」というブランド名でシューズを始めとするグッズが発売されている。
- 公式発表の183cm(6フィート)とされる身長よりも実際はもっと低いのではとも言われることがある。実際に彼に会って並んだことがある、NHKバスケットボール解説の塚本清彦はことあるごとに「実際は180cmもない」と述べている。
- 2000年に、オールスター戦前夜の3Pシュートコンテストに出場したが、1回戦で敗退した。
- 母親のアン・アイバーソンは、シクサーズでチームメイトだったリック・マホーンと同級生だった。