メルキト
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メルキトは、
- キリスト教のアンティオキア総主教座・アレクサンドリア総主教座が単性論派とカルケドン派に分裂した際に単性論派がカルケドン派を指した言葉で、シリア語に由来し、「皇帝派」を意味する。コンスタンティノポリスにいた東ローマ帝国の皇帝がカルケドン派を帝国全土に定着させようとしていたため、こう呼ばれる。
- モンゴル高原に割拠した遊牧民の部族集団。
ここでは2のメルキト部族について述べる。
[編集] モンゴル部族としてのメルキト
メルキト(Merkit)は、モンゴル帝国以前の時代にモンゴル高原北部から東南シベリアにかけての地域に割拠していた遊牧民の部族集団である。その居住地はバイカル湖の南の地域を中心とし、南にはケレイト、東にはモンゴルと接していた。
言語的にはモンゴル語系の言葉を話していたと見なされ、民族系統としてはモンゴル部族と同じモンゴル系民族であったと考えられることが多い。しかしながら種族としてはその居住地域との関係から、古来はウラル語派に属するモンゴロイドの南サモエード諸族が南下して、テュルク化し、最終的にはモンゴル化したと思われる。現在東シベリアに住むテュルク系の民族であるハカス、サハ(ヤクート)と結びつけてテュルク系とみる説もある。或いは同じモンゴル諸族のブリヤートと親近関係があるとされる。
モンゴル帝国成立後にまとめられた歴史物語である『元朝秘史』によれば、のちのチンギス・カンの時代のメルキトは単一の集団からなる部族ではなく、大きくチャカト、ウドイト、ウワスという3つの集団に分かれていた。また『元朝秘史』からは、彼らが獰猛な部族であり、モンゴル部族と宿敵であった様子が読み取れる。イルハン朝のガザン・ハン、オルジェイトゥ・ハン時代に編纂されたラシードゥッディーンの『集史』のテュルク・モンゴル系遊牧民の民族区分に従えば、メルキト部族はジャライル、オイラト、タタルと同じく「モンゴル語を話すが「モンゴル」とは呼ばれない」部族集団に分類される。さらに『集史』によれば、メルキト部族連合はウドイト部族とも呼ばれ、ウハズ、ムダアン、トデクリン、ジュウンと呼ばれる4つの氏族からなっていてと伝えられている。
[編集] メルキト部族の「帝王」トクトア・ベキ
のちのチンギス・カンことテムジン在世中にウドイト=メルキト部族連合を統括・支配していたのはトクトア(トクタイ)・ベキという人物であった。『元朝秘史』によれば、チンギス・カンの母ホエルンを娶ろうとしてイェスゲイ・バアトルらに彼女を奪われたイェケ・チェレンという人物はトクトア・ベキの弟であったという。トクトア・ベキの父はトドウル・ビルゲ・テギンと言い、メルキト部族を統合してキヤト・モンゴル氏族の始祖カブル・カンや、チンギスの大叔父であったクトラ・カン、ケレイト王国のオン・ハンの祖父マルクズらを敗ってモンゴル高原東方をメルキトの支配下においたほどの強大な王者であったらしい。トクトアは父の偉業を継ぐ形で、メルキトの勢力をモンゴル諸部族やケレイト、さらに東方のコンギラト部族になどにも自らの影響力をおよぼそうと努めていた。このように、12世紀末のメルキト部族は、タタル、ケレイト、ナイマンとならぶモンゴル高原でも屈指の強大な遊牧勢力であった。また、モンゴル部族がケレイト王国との同盟関係を築いていたのに対して、メルキト部族は概してナイマン王国との同盟や婚姻を結んでいた。『集史』ではトクトアに対してケレイトのオン・ハンやナイマンのグチュルク・ハンなどと並び「メルキト部族の帝王(パーディシャー)」と呼び、かれの地位を「王位(パーディシャーヒー)」とさえ呼んでいる。
『元朝秘史』における、チンギス・カンの母ホエルンがかつてメルキト部族の若者であるチレドゥの婚約者であったがチンギスの父イェスゲイによって略奪されたとする説話、そしてチンギスの妻ボルテが略奪されたのはそのチレドゥの報復として襲撃したのであったとする物語は非常に有名である。まず、イェスゲイの時代、モンゴル部族で最も西に進出しケレイト王国と隣接していたのはイェスゲイや彼の兄弟たちをはじめとするキヤト氏族の人々であった。勢力の拡大と金朝との交易を欲していたメルキト部族は、まず強大な勢力を誇っていたタイチュウト氏族やケレイト王国との直接対決を避けて、東方のモンゴルの一派であったコンギラト部族と婚姻関係を結び、強大な南隣のケレイトや東隣のタイチウトをはじめとするニルン系のモンゴル部族との包囲網の打開を謀ったものと考えられる。これが従来からコンギラト部族に対し婚姻関係を結んでいたモンゴル部族、わけてもキヤト氏族の世嗣たちを激しく警戒させ、上述のイェケ・チレドゥがコンギラト部族の一氏族であったオルクヌウト氏族の娘ホエルンを娶ろうとしているとの情報を聞き付け、コンギラトに対する既得権益の防衛のために彼女を掠奪するという挙に出てメルキト側の計画を頓挫させた。この掠奪事件に実行したのはカブル・カンの息子、バルタン・バアトルの世嗣であった、ネクン・タイシ、イェスゲイ・バアトル、ダリタイ・オッチンギンの兄弟たちであり、彼らは『集史』によればそれぞれバルタン・バアトルの次男、三男、四男であった。
時代が下って、メルキトによるテムジンの幕営襲撃と、妻ボルテの略奪に際し、テムジンは父イェスゲイのかつての同盟者であるケレイトのオン・ハンを頼ってボルテを奪還したが、1180年代頃の出来事と推定されているこの事件をきっかけにケレイトと同盟してモンゴル部族の実力者に成長していくチンギスにとってメルキトは宿敵となり、これ以降、モンゴルへの度重なる攻撃を受けるようになる。
1198年頃、チンギス・ハーンとオン・ハンはメルキトの三大集団を率いていたウドイト・メルキト部族の首長トクトア・ベキを討ち、トクトアを本拠地のセレンゲ川流域からバルグジン川渓谷に追いやった。存続の危機に陥ったトクトアはモンゴル部族内の反チンギス集団であるタイチウト氏族と同盟を結んで対抗したが、タイチウトは1200年にチンギスによって滅ぼされた。1202年、トクトアは今度は同盟関係にあったナイマン王国のダヤン・カンと結んでケレイトの牧地を攻撃したが、オン・ハンが南に逃れたためにケレイト軍を破ることができず失敗した。
さらにチンギス・ハーンがオン・ハンと仲違いしてケレイトを滅ぼし、さらにナイマンを滅ぼすと、その北部にいてナイマンと同盟していたメルキトのトクトア・ベキもモンゴルの攻撃を受けて打ち破られた(1204年)。この戦いで三大集団のひとつウワス・メルキト部族のダイル・ウスンをはじめ、多くのメルキトはチンギス・ハーンに降伏し、チンギスに従わなかったメルキトはモンゴル高原を駆逐された。また、このとき捕虜になったトクトアの息子の妻ドレゲネは、チンギス・ハーンの三男オゴデイの第六夫人となり、のちに第3代ハーンとなるグユクを生んでいる。
逃亡したトクトア・ベキは、1205年(1208年とも)、イルティシュ川流域でナイマンのクチュルクと合流して追撃するモンゴル軍を迎え撃ったが打ち破られ、戦死した。これ以後もモンゴル帝国に対抗するメルキト勢力は中央アジア方面で活動したが次々に打ち破られ、モンゴル帝国の下で部族集団としてのメルキトは解体していった。
ただし、集団としてのメルキトが解体してもメルキト部族の名が消えたわけではなく、モンゴル帝国以降の歴史には所属部族をメルキトとする人々の名がたびたび現われる。上述のウワス・メルキト部族の首長ダイル・ウスンの帰順した時、かれの娘クランがボルテに次ぐチンギス・カンの第二皇后(ハトゥン)となる(コルゲン皇子の生母)と、このダイル・ウスンやトクトアの弟クドゥの系統の一族がモンゴル帝国の各王家で有力首長や姻族として活躍した。他にモンゴル帝国期のメルキト部人では、元の末期に専権をふるったバヤン、トクトの叔姪が有名である。