イスカリオテのユダ
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イスカリオテのユダ(יהודה איש קריות)は福音書、使徒行伝や外典のユダの福音書など新約聖書に登場するイエスの使徒の一人。イスカリオテ(イーシュ・カリッヨート)とはヘブライ語で「カリオテの人」を意味し、カリオテとはユダヤ地方の村の名である。
イエスを裏切ったことから、「裏切り者」の代名詞として扱われることが多い。よく間違われるが、使徒ユダ (タダイ)とは別人である。
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[編集] 新約聖書の記述
ユダがいつ弟子になったかという記述は福音書にはみられない。『ヨハネによる福音書』(6:71)は「イスカリオテのシモンの子ユダ」と紹介している。
『マタイによる福音書』(26:14-16)ではユダは金目当てで祭司長たちにイエスの引き渡しを持ちかけ、銀貨三十枚を得る約束をとりつけている。『ヨハネによる福音書』(12:4-6)では高価な香油をイエスの足にぬったマリアを非難する。そこに続けて彼が使徒たちの会計を任されながら、不正を行っていたと記されている。
複数の福音書の最後の晩餐の場面ではイエスに裏切りを予告され、『マルコによる福音書』(14:21)では「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とまでイエスに言われている。
ユダは祭司長たちと群衆をイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡した。 その後、マタイ福音書ではユダは自らの行いを悔いて銀貨を神殿に投げ込み、自殺したことになっている。 『使徒言行録』では裏切りで得た金で買った土地にまっさかさまにおちて内臓がすべて飛び出して死んだことになっている。
[編集] 解釈
福音書中で側近の不信心の逸話は、弟子たちの離反(ヨハネ6:66)、ペトロの否認(マタイ26:69-75)、疑い深いトマス(ヨハネ20:24-29)、逃げ去った女たち(マルコ16:8)など事欠かない。 それにしてもユダの裏切りは衝撃的である。 これを受け止めるのにいくつかの困難が伴う。
- イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか?
- ユダはいつから背信の心を持ったのか?
- 裏切りの動機は何か? そもそも彼の自由意志によるものか?
多くの神学者、哲学家がこの問題に取り組んで来た。
一例を挙げれば、スイスの神学者のカール・バルトは、ユダは、イエスを十字架に架けキリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。
この考えは突飛なものではない。 たとえば『ヨハネによる福音書』のイエスは、最初から裏切者が誰であるかを知っていた(6:64)。 しかし最終的には最後の晩餐の折に裏切りを予告したのち、
イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。(13:26-27新共同訳)
イエスは起こるべきことをすべて知っており、むしろ進んでユダに指図しているようにすら見える。 共観福音書が伝える「ユダの接吻」も、『ヨハネによる福音書』のイエスはそれを受けず、自ら進み出て名乗った(18:4)。
すでに2世紀後半のキリスト教父文書には、異端の説として「イエスを裏切ったユダが実はイエス・キリストの弟子の中の他の誰よりも真理を授かっており、裏切りの神秘を達成した」との考えがあったことを告げている。 「ユダの福音書」の項も参考のこと。
[編集] 芸術作品の中に見られるユダ
- 多くの「最後の晩餐」を描いた絵で、ユダは次のように表現されている。
- 一人だけ、頭に光冠が描かれない。
- 一人だけ、机の反対側に座っている。
- 衣は黄色の場合が多い。
- 有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』では、伝統的な表現法を廃し、みなと同じ側に座らせ、金の入った袋と思しきものを握らせている。
- ダンテの叙事詩『神曲』地獄篇においては、地獄の最下層、裏切者が葬られる地獄第九圏の氷地獄コキュートスの中央で、魔王に噛み締められるというもっとも残酷な罰を受ける最重罪人として描かれている。コキュートスは四円に区切られているが、このうち中央の円はユダに因む「ジュデッカ」と命名されている。
- 邦題『最後の誘惑』として映画化されたニコス・カザンザキスの小説『キリスト最後のこころみ』は、イエスに信頼され、裏切りの役を引き受けるというユダ解釈を示している。
- 太宰治の「駈込み訴え」もイエスの教団の会計係のユダを描いている。