ウジェニー (フランス皇后)
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ウージェニー(フランス名:Eugénie de Montijo、1826年5月5日-1920年7月11日)は、ナポレオン3世の皇后である。スペイン貴族の娘で、1853年1月30日にナポレオン3世と結婚。以後1870年の普仏戦争で第二帝政が滅亡するまでの18年間フランス皇后として、フランス社交界の中心となってクリノリンを始めとする様々な流行を生み出す。その美しい容姿からオーストリアのエリザベート皇后と並ぶ19世紀ヨーロッパを代表する美女と言われる。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1826年スペインのグラナダで生まれる。父はテバ及びモンティホ伯キプリアノ・グスマン・パラフォックス・デ・グスマン・イ・ポルトカレッロ(Cipriano Palafox de Guzmán y Portocarrero)、母はマラガで果物とワイン貿易で財をなしたスコットランド人を父に持つマリア・マヌエラ・キルパトリック(Maria Manuela Kirpatrick)。 スペインでの名前はエウケニア・マリア・イグナシア・アウグスティナ・パラフォックス・デ・グスマン・ポルトカレッロ・イ・キルパトリック(Eugenia Maria Ignacia Augustina Palafox de Guzmán Portocarrero y Kirkpatrick)と言う。姉が一人おり、名はマリア・フランセスカ(通称パカ)と言い、後にアルバ公爵に嫁いでいる。家庭は、社交好きで奔放な性格だった母の影響もあって、様々な文化人が集まるサロンになっており、様々な人々が出入りしていた。その中に小説『カルメン』の原作者プロスペル・メリメで、彼は1830年に父シプリアノと出会い、意気投合し、当時マドリードに住んでいたウージェニーの家にやってきたのだった。程なくして彼は、母マヌエラの愛人になった。愛人関係はしばらくすると終わるが、その後も交流は続き、彼はウージェニーや母マヌエラのよき相談相手となる。後年メリメが元老議員になれたのも、このウージェニーやマヌエラとの付き合いがあったからである。なお、メリメが『カルメン』を書くきっかけとなったのもマヌエラで、ある晩サロンで話題になった盗賊の話が作品の元となったのである。
[編集] 自由奔放な少女時代
1835年春、カルリスタ戦争の勃発に伴いウージェニーと姉のパカは、母に連れられてパリにやってくる。シャン=ゼリゼに居を構えた。そこにはメリメもやって来て、姉妹二人にフランス語を教えたという。また彼は親友で当時アンリ・ベイルと名乗っていたスタンダールを母子に紹介している。ウージェニーが9歳の時のことだ。歴史の話(特にナポレオンについて)をドラマチックな語り口を披露するこの男性をウージェニーや姉のパカは心待ちにしていたという。彼の影響でウージェニーは歴史、特にナポレオンへの愛着を深めていくことになる。なお、彼はウージェニーの初恋の人であり、小説『パルムの僧院』でスタンダールがワーテルローの戦いについて書いているのも彼女のためであると指摘するスタンダール研究者も多い。しかし、この関係もウージェニーが13歳になった1839年3月17日に父が急死したことで一家がスペインに帰国した事で終わった。スタンダールは1842年に亡くなるまでウージェニーと再会することは無かった。父の死後一家三人はマドリードで暮らした。美しく成長したウージェニーは社交界に出るようになるが、彼女はむしろ乗馬や水泳、剣術の方を好み、時にはタバコを吸い、闘牛場に入り込むなど、母も手を焼くおてんば娘となっていた。しかし、美しい彼女には縁談が降る様にあった。その中にはナポレオン3世の従兄弟でジェローム・ボナパルトの次男ナポレオン公(通称プロン=プロン)がいた。彼は1843年ウージェニーに一目ぼれをし、彼女もまんざらではなかったが、結局これは実る事は無かった。その後もいくつか縁談はあったのだが、どれもウージェニーが気が進まなかったり、また相手の親族の反対にあったりして実る事はなく、すでに20歳を超えていたウージェニーは結婚を諦めかけていた。そんな1848年ある日、母の従兄にあたるレセップスがやってきてパリに行くことを勧める。これにのった母娘は、1849年10年振りに同地を訪れる。そしてそこで彼女の運命を変える人物と出会う。
[編集] ナポレオン3世との出会いと結婚
1849年4月、ジェローム・ボナパルトの娘マチルド皇女のパーティでウージェニーは当時のフランス大統領ルイ=ナポレオン・ボナパルトと出会う。彼女は23歳、大統領は41歳であった。当時のファッションに従い、肩や胸を大胆に開けたローブ・デコルテ姿のウージェニーに、美しい胸と白い肌にめっぽう弱かった大統領はものの見事に一目ぼれし、当時の作家はその様子を「おいしそうなクリームケーキを置かれた子どもさながらだった」と書くほどであった。以後、ルイ=ナポレオンはこの美しい「スペイン娘」を手に入れるためにありとあらゆることをしていく。花束やプレゼント攻めはもちろん、自分の別荘にこの母娘を招待したりとまさにいたでり尽くせりであったが、ウージェニーはこの大統領の女性関係の派手さを聞いていたため、愛人として扱われる事を嫌がった決してなびこうとしなかった。しかし、そうこうしているうちにフランスの政局は揺れ動いていき、ついにルイ=ナポレオンは1851年12月2日クーデタに踏み切り、翌1852年12月2日ナポレオン3世として即位した。こうして第二帝政はスタートした。しかし、皇帝のウージェニーへの執着は変わることは無かった。しかし、唯一つ変わったのは彼女を愛人ではなく、妻として迎えることを考え始めたことである。こうして1853年1月13日ついに皇帝は結婚を申し込み彼女も承諾したのである。 しかし、この婚約が知らされるとフランス国民は大いに驚いた。ボナパルト一族は出来たばかりの第二帝政の基礎固めのためにも、ナポレオン3世の皇后はヨーロッパの名門から迎えるほうが良いと考えていた。ナポレオン3世の腹心ペルシニーでさえ、皇帝の胸ぐらをつかんで「あんな売女と結婚させるためにクーデタを起こしたわけでない」と憤るほどだった。しかし、皇帝はただ一言「私は彼女を愛している」と言って押し切ったのだった。こうして1853年1月30日ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。上流階級の人々には大いに不評であった結婚式だったが、労働者・農民といった一般庶民は政略結婚ではなく、恋愛結婚をした皇帝と皇后に親近感を持ち、「成り上がりの皇帝が王族でないスペイン女性と結婚する」といって大歓迎した。そして、ここからウージェニーの大衆的人気が生まれていくことになる。
[編集] 優雅で魅力的なフランス皇后
式典を無事に終えた夫妻は、ノートルダム大聖堂からテュイルリー宮殿に戻り、 最初の一夜をサン・クルー離宮で過ごす予定だった。しかし、ここで事件が起きた。以前からナポレオン3世が、この離宮のアパルトマンに住まわせていた、彼の愛人ミス・ハワードが、立ち退きを拒否したのである。 彼女は、ナポレオン3世がかつて起こしたクーデターに失敗した時から付き合っていた女性で、 彼女は当時人妻だったが、夫と離婚し、その離婚で得た莫大な資産によって、1848年の12月10日に行なわれた大統領選挙の際、彼女はその資産を使って、ルイ・ナポレオンのために新聞記者・風刺漫画家・シャンソン作詞者を買収し、大規模な 宣伝キャンペーンを行なった。その結果、ルイ・ナポレオンは当選する事ができたのだった。 しかし、彼はウージェニーと結婚するつもりである事を彼女には知らせず、急遽公用を作って彼女をロンドンに行かせている間に、ウージェニーとの婚約発表をしてしまったのだった。当然ミス・ハワードはこの仕打ちには納得いかず、頑として離宮立ち退きを拒否し続けた。結局、皇帝夫妻の方が遠慮し、サン・クルーの庭園のはずれにある、暖房もない小屋で結婚第一日目の夜を過ごさなければならなくなった。ミス・ハワードはこの一夜を泣き明かしたあげく、翌日にシルク街の自宅に戻り、ナポレオン3世に別れの手紙を書き、最後の謁見を許された後、宮殿を立ち去った。これ以降も、次々とウージェニーは、夫の浮気に悩まされる事になった。フランス皇后となり、まず最初に彼女が考えた事は、いかにしてフランス宮廷の人々に気に入られるかという事だった。
[編集] 政府要人との角逐
政府の要人達は、ウージェニーに好意を抱いていなかった。 その筆頭格はマチルド、彼女の兄で皇位継承権に近いプロン・プロン、ナポレオン1世の一人目の弟のリュシアン・ボナパルトの娘の、ソルナ伯爵夫人などだった。特に、マチルドはナポレオン3世とかつて婚約までしていた関係であり、破談になってからも彼との関係は良く、ナポレオン3世は彼女に宮廷の取り仕切りを任せる程だった。 このようなかつての恋愛感情にも加え、本来なら自分が皇后になっていたはずなのにという思いも加わり、 ルイ・ナポレオンからミス・ハワードを遠ざけさせるために、自分のパーティーで二人を引き合せておきながら、マチルドはウージェニーに強い敵対心を抱いていた。また、ソルナ伯爵夫人も、ウージェニーを「精神異常の赤毛娘」と呼び、ブリュッセルで「あるスペイン女の結婚」という題名の誹謗文書を出版させた。この小冊子はフランスにまで入ってきて、警察によって押収された。さらにこうした宮廷内での中傷に加え、1853年の2月末に妊娠したが、流産するという不幸にも、ウージェニーは見舞われてしまう。しかし、流産した彼女の気持ちも考えず、なんとナポレオン3世は、ミス・ハワードとの関係を復活させてしまった。彼女の出現にはさすがにウージェニーは激怒し、フランス皇后の座を投げ打ってスペインへ帰ると夫に言い渡した。 これにはさすがにナポレオン3世も驚き、ミス・ハワードを説得してロンドンに帰らせた。 5月に再びウージェニーは妊娠したが、3カ月後に再び彼女は流産してしまった。
[編集] クリミア戦争と宮廷掌握
この年の10月にはクリミア戦争が勃発した。ウージェニーは、直接政治に関わる事はなかったが、彼女の魅力は 戦時下に開かれたレセプションや舞踏会で大いに発揮され、それまでナポレオン3世の事を「テュイルリーの成り上がり者」と軽蔑していたイギリスの高官達や、オーストリア大使ヒューブナー伯爵を懐柔する事に成功し、フランス外交に少なからぬ貢献をした。ロシア軍とのセバストポリの攻防戦は予断を許さず、戦争は長引き、英仏同盟軍の損害もしだいに深刻なものとなり、1855年の4月、打開策を協議するべく、夫妻はロンドンに招待された。 2人はウィンザー宮殿で盛大な歓迎を受ける。ヴィクトリア女王はウージェニーに好感を持ち「非常に神経質だが、極めて優雅な女性」と評した。また、女王の従妹のコバーグ侯爵夫人も、ウージェニーについて「彼女は皇后でも皇女でもない。だが、まさに魅力的で理想的な女性である」と言っている。1855年の6月、ウージェニーは再び妊娠していた。 彼女は、プロン・プロンのような彼女の妊娠を喜ばない人間もいたため、人目を避けるためにクリノリンを着用した。 クリノリンは、十六、七世紀に流行したヴェルチュガダンや十八世紀のパニエを踏襲したものであり、必ずしもこの時代に新しく考えられたものではなかった。むしろ、反動化したフランス第二帝政時代の復古調モードと言える。 しかし、このスカートはウージェニーのような、首や肩や胸の美しい女性のデコルテと調和し、その美しさを 際立たせるのに役立った。こうして、ウージェニーがこのクリノリンを流行らせ、このファッションは第二帝政を象徴するファッションとなっていく。ウージェニーは、この、自分の美しさを最大限に生かしてくれる装いで社交界を優雅で華麗なものとし、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の接待をはじめ、ナポレオン3世の外交に役立った。 とはいえ、妊娠中の身でのこのような仕事は苦役そのものであったため、姉のパカには「常に公衆の前に立ち 、病気だと言う事もできないのは、とても辛い事です。でも、私は自分の務めを立派に果たしたいと思います」と、本音をもらしている。
[編集] 後嗣誕生
1856年3月16日、ウージェニーはついに、念願であった子供のユジェーヌ・ルイ・ナポレオンを出産した。息子の誕生に、ナポレオン3世は大喜びし、側近の誰彼の見境なく、接吻して回った。 3月にパリ条約が結ばれ、クリミア戦争は集結した。しかし、皇帝夫妻にとって衝撃的な事件が起きた。 1858年の1月14日の夜八時頃、二人はル・ペティエ街にあるオペラ座に向かった。そして馬車が正面玄関に到着した時、突然、三発の爆弾が炸裂した。死者十八人、負傷者百五十人を出した暗殺未遂事件だった。ナポレオン3世は鼻にかすり傷を負い、ウージェニーの白い夜会服も犠牲者の血で染まった。テロリスト達は数時間後に逮捕された。
[編集] 漁色家ナポレオン3世とカヴールの姦計
犯人は、ジュゼッペ・マッツィーニ派の亡命者フェリーチェ・オルシーニを主犯とする、四人のイタリア人達だった。 彼らの目的は、教皇の支配とオーストリアの占領からイタリアを開放する事だった。オルシーニは、かつてナポレオン3世がカルボナリに入党していた頃の仲間であり、一時は皇帝も彼の助命を考えた。しかし、3月13日に彼とその一味は処刑された。この事件は、脆弱だった第ニ帝政の屋台骨を揺るがし、当局は警戒を強めた。2月には国家公安法が発布され、不審人物は容赦なく逮捕されるようになった。各地の知事には絶大な権限を与え、彼らに逆らい迷惑をかけるような人物は、証拠不十分なまま遠慮なく逮捕された。ナポレオン3世は私的評議会を再編成し、取り締まり強化のためにそこに異父弟で腹心のモルニー侯爵を参加させた。そして、さらに重要な決議として、今後皇帝が不在であったり、何か支障が生じた場合は、ウージェニーが摂政職につくという取り決めがなされた。これ以降、彼女は最終議決機関である私的評議会にも参加する事になる。ナポレオン3世が領土を拡大しようと目を付けたのは、オーストリアの支配からの脱却を目指す、イタリア復興運動だった。彼はサルデーニャ王国への経済的、軍事的な援助をしたが、その代わりに首相カミッロ・カヴールとプロンビエールの密約をし、サヴォイアとニースの割譲を認めさせた。しかし、フランスは裏切りをした。1859年4月にサルデーニャ王国とオーストリアの戦争が始まると、当初はフランス軍も南下し、オーストリア軍を破ったものの、プロイセンやイギリスに干渉されると、たちまち密約を反故にし、単独でオーストリアと講和してしまった。カヴールは、このナポレオン3世の態度にいらだち、色じかけで彼を翻意させようとした。カヴールは、ナポレオン3世が猟色家である事に目を付けた。
[編集] カスティリョーネ伯爵夫人とメッテルニヒ侯爵夫人
そこでスパイとして選ばれたのが「ヨーロッパ一の美女」と謳われた、当時18歳のカスティリョーネ伯爵夫人だった。 カスティリョーネ一家は、1859年の年末にトリノを発ち、翌年の1月6日にパリに着いた。 そして早くも1月9日には、フランス社交界の人となった。彼女はマチルドのパーティーに招かれ、そこでナポレオン3世と 出会う。すぐにカスティリョーネ伯爵夫人は、ナポレオン3世の愛人になった。 フランス宮廷は、毎年、10月半ばから11月半ばまで、パリ北東のコンピェーニュで過ごす事になっており、 この集まりに招かれるのは、ごく少数の、グループ別に呼ばれる、外交官・軍人・高官など、各界の名士達であり、 この「コンピェーニュの祝宴」に招待されるのは、極めて名誉な事だった。1860年のこの集まりには、カスティリョーネ伯爵夫人も招かれた。宮廷人達は、皇帝のあまりの無遠慮ぶりにあきれ果て「情婦と皇帝は、皇后と一つ屋根の元で生活するのだろうか。いったい皇后はどう思うのだろうか」と、半ば興味を持ちながら、見守っていた。 カスティリョーネ伯爵夫人は、ナポレオン3世の寵愛をいい事に、この場所でも我が物顔でふるまい、 嫉妬に狂うウージェニーなどは、眼中になかった。いまや、カスティリョーネ伯爵夫人は、公然たる寵姫の座に君臨していた。悩み苦しんでいたウージェニーにとって、嬉しい、新しい出会いがあった。1859年12月14日、新たにフランス大使に任命されたクレメンス・メッテルニヒの息子リヒャルト・メッテルニヒ侯爵と共に、妻のパウリーネ・メッテルニヒがナポレオン3世を表敬訪問するために、パリにやってきたのだった。二日後の16日、まずナポレオン3世のパウリーネへの謁見が終わった後、ウージェニーが女官達と共に彼女を謁見した。ウージェニーは、当初の予定の十分を大幅に越え、一時間近くもパウリーネを謁見した。二人はまるで幼なじみのように、初対面から打ち解けておしゃべりを楽しんだ。この謁見以降、皇帝夫妻に気に入られたメッテルニヒ夫妻は、頻繁に宮廷の集りに呼ばれ、自分達の家でゆっくりする暇もない程だった。大晦日には、彼らは皇帝夫妻と四人だけで過ごした。1860年からパウリーネは、ウージェニーが内輪でたった五百人から六百人の客だけを招いて毎月催していたパーティーにも、招待されるようになった。また、彼女は毎年恒例となっていた「コンピェーニュの祝宴」にも、夫共々招待されるようになった。一方、カスティリョーネ伯爵夫人の傍若無人な態度は、いっこうにおさまらず、自分の肉体に自信を持っていた彼女は、自分の足、ふくらはぎ、手、肩などを写真に撮らせ、それをあちこちのサロンに見せ歩くという癖があり、しかもその写真には「生まれにおいて、私は最上流階級の人々にひけをとらない。美しさにおいては、その人達を凌ぐ。私は自分の考えで、その人達を評価する」と、臆面もなく自画自賛の言葉を書いた。無礼で生意気な彼女には、宮廷人達も憤激した。すでにウージェニーの親友となっていたパウリーネも「あの女は御しがたい馬鹿者ね!」と罵倒した。メリメも「彼女ときたら、まったく頭にくる!あの無作法ぶりは私をいらだたせる」と、怒りをあらわにしている。
[編集] 青年イタリアのテロ
このような宮廷人達の怒りをよそに、カスティリョーネ伯爵夫人の密命は、着々と実を結び、イタリア統一の見通しがつき始めていた。しかし、そんな時に彼女にとっては予想外の事件が起きた。 4月のある日、ナポレオン3世は早朝にモンテーニュ通りにある彼女の邸から帰るところだった。 そして、馬車に乗りこんだところ、突然三人の暴漢に襲撃された。だが、幸い御者が冷静さを失わず、一気に馬車をテュイルリー宮殿にまで走らせたため、皇帝は危うく命拾いをしたのだった。翌日、三人の男達はすぐに逮捕された。 彼らは、共にイタリア人で、マッツィーニに心酔する青年達だった。 事件を知ったカスティリョーネ伯爵夫人の敵達は、早速この事件を利用し、彼女が三人と共謀し、皇帝暗殺を狙ったのだといううわさを流した。おそらくカスティリョーネ伯爵夫人は、彼らとは関係がなかったのだろうが、あらぬうわさに悩まされ、またナポレオン3世も、彼女の邸から朝帰りした日の帰りだった事を、新たに暴露される事を恐れた。 カスティリョーネ伯爵夫人は、人目を避け、自宅にこもって謹慎しながら再び皇帝が訪れるのを待った。 しかし、8月になって三人の暗殺者達の公判が始まると、ナポレオン3世は彼女を説得して宮廷を去らせ、 彼女の寵姫としての役目は終わった。しかし、カスティリョーネ伯爵夫人は、一度はロンドンへ行ったものの、すぐに パリに現われ、皇帝とのよりを戻した。ナポレオン3世は、ウージェニーの嫉妬を警戒し、カスティリョーネ伯爵夫人に秘密厳守を要求した。しかし、おしゃべりで口が軽かった彼女は、皇帝との関係が復活した事を話してしまった。 これが皇帝の逆鱗に触れ、カスティリョーネ伯爵夫人はフランスを追放され、トリノに帰っていった。 ところが、ナポレオン3世の浮気はおさまらず、彼女の後釜には、いとこで外務大臣であるアレクサンドル・ヴァレフスキ伯爵の妻のヴァレフスカ外務大臣夫人、イギリス人女性のミス・スミス、イタリア人女性バルッチ夫人、カドール公爵夫人、歌姫ハマカーズ、ウージェニー付きの女官ラ・ベドワイエール夫人、アメリカ人女性リリー・ムールトンなどが座った。夫の浮気にウージェニーはあきれ果てた。また、彼女には夫の相手が低級娼婦としか思えず、パカに手紙で「私の心は屈辱に溢れています。彼のような地位にある人間が低級娼婦(彼女達のある者は小間使いにさえ値しません)で満足できるという考えは、どうしても認める事はできません! でも、彼に止めさせる事はできますまい!彼はなんだってかまわないのですからね。あの尻軽女どもへの彼のぞっとするような、飽く事を知らない好みの前には、私の激昂も効果がありません」とその怒りをぶちまけている。
[編集] メキシコでのカソリック帝国樹立の野心
1861年の8月、ビアリッツでバカンスを送っていたウージェニーの許を、彼女とスペイン時代からの知り合いだった 亡命貴族でメキシコの外交官ホセ・イダルゴが訪れた。彼はこの年に大統領となったベニート・フアレスの自由主義的で急進的な改革に反対する意見であり、反フアレス派の一人だった。彼はカトリック君主制を夢見ており、フランスの援助が必要であり、ウージェニーに「メキシコは救いの神として、今勢力を欲しいままにしている騒乱をおさめてくれる君主を必要としています」と訴えた。カトリックだった彼女は、すぐにこの、メキシコをカトリックの大帝国にするという野望に夢中になった。それからウージェニーはこの話を夫にも聞かせ「絶対に介入すべきです!この戦争はあなたの治世の中で、最も輝かしいものとなるでしょう!ナポレオン1世を感激させるに違いありません!」と力強く助言した。 ナポレオン3世も、メキシコをカトリックの帝国にし、メキシコにまでフランスの勢力を及ぼすという計画に賛成した。 後年、1904年のある日、ウージェニーはこのメキシコ派兵について、フランスのコンチネンタル・ホテルで、フランスの外交官モーリス・パレオローグと昔話にふけっていた時「あれは1861年、ビアリッツにおいて、私により決定された事です!」と、メキシコ派兵について主導権を握っていたのは自分だったと断言している。彼らが傀儡のメキシコ皇帝として選んだのは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟のマクシミリアン大公だった。しかし、彼にメキシコ皇帝の話を打診する前に、皇帝夫妻はメッテルニヒ夫妻などと何度も秘密の会議を開いていた。メッテルニヒ夫妻は悪い予感がすると、マクシミリアンに、メキシコ皇帝即位を勧める計画に反対したが、二人は全く彼らの言う事を聞き入れなかった。マクシミリアンとの話はまとまり、1864年4月10日、彼はメキシコ皇帝として即位した。 1865年、宮廷画家のヴィンターハルターが、ウィーンから帰った後、オーストリア皇后のエリザベートについて、 ウージェニーに話して聞かせた。ヴィンターハルターは、前年エリザベートの肖像画を三点仕上げていた。 彼女が肖像画のモデルになっていた時の受け答えが、一風変わっていて面白かったというのだ。 エリザベートに興味を持ったウージェニーは、早速ウィーン駐在のフランス大使に「来年バート・キッシンゲンで保養する予定だが、その期間中私の方から彼女を私的に表敬訪問するわけにはいかないか」と探りを入れるように頼んだ。 しかし、エリザベートの方は気乗りがしなかったようで、この申し出を断った。
[編集] レフォルマ革命下のメキシコ
メキシコでは、フアレス率いる自由主義派勢力のゲリラの抵抗は根強く、フランス軍は苦戦し、被害が大きくなる ばかりだった。アメリカも、依然としてフアレスを支援し続け、メキシコの情勢は泥沼化していった。ウージェニーのメキシコ熱も冷めていき、夫共々一刻も早くメキシコから手を引きたいと思うようになっていた。1865年の10月には、早くもフランス政府はアメリカに「メキシコのフランス軍を即座に撤退させる代わりに、マクシミリアンのメキシコ皇帝政府を承認してくれないか」と持ちかけた。しかし、ワシントン政府はこれを拒否した。さらに、同年の12月、アメリカの国務長官スワードは、フランス軍の即時撤退を要求し、しかもこの要求に対する反対は一切受け付けず、フランスがこの要求を呑まなければ、メキシコ侵攻も辞さないという厳しい条件を突きつけた。結局、フランス政府はアメリカのこの要求に逆らえず、1866年の12月初めにフランス軍撤退を始めた。1867年4月1日にフランスはパリ万国博覧会を開催した。皇帝夫妻は、この万博によって失墜し、孤立化したフランスの威信を取り戻そうとした。 この万博には各国から大勢の人々が押し寄せ、大盛況となった。特に、万国博覧会を記念してオーストリア大使リヒャルトが主催した舞踏会は、妻のパウリーネの斬新な演出が話題になり、ウィーンのジャーナリスト、フリードリヒ・ウールの絶賛を始め、何週間もの間話題にのぼり、様々なものに書かれた。万国博覧会にやって来た人の中には、幕命を受けた水戸藩主の弟徳川昭武もいた。パリ万国博覧会が大成功を納め、一安心したウージェニーだが、彼女の耳に衝撃的な電報が飛び込んできた。6月19日にケレタロで、マクシミリアンが銃殺されたのである。
![マネ作の「マクシミリアンの処刑」。マクシミリアンは「顔だけは撃たないでくれ」とメキシコ兵に金貨を配ったが、逆に狙い撃ちにされた。](../../../upload/shared/thumb/4/40/Edouard_Manet_022.jpg/300px-Edouard_Manet_022.jpg)
[編集] メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑
7月1日に産業宮殿で行なわれた式典の最中、ナポレオン3世は新たな一通の電報により、マクシミリアンの銃殺刑は確実だという事を知った。マクシミリアンの死が虚報であればという、2人の一縷の望みは、完全に断たれた。 ウージェニーは、やっとの思いで式典の責務を果たし、テュイルリー宮殿に戻った後、激しい後悔に襲われた。 その後彼女は「この私なのよ、私一人でやった事なのよ、メキシコに行くようにと、あの不運なマクシミリアンを説得したのは。私の提案によって、この不幸な事件は企てられたんだわ!」とマクシミリアンの死は、全て自分の責任だと夫に訴えた。7月2日、秘密警察署長イルヴォワはナポレオン3世に拝謁した。皇帝はマクシミリアンの悲劇について、民衆はどううわさしているのかと彼に尋ねた。彼は始めは正直に答える事をためらっていたがナポレオン3世に促され、観念し「陛下、そう仰るのなら、正直に申し上げましょう。この度の不幸なメキシコ戦争の結果には、国民は心の底から怒っております。いたる所で、人々はあの戦争の事を、共通した非難の気持ちを抱いてうわさしています。そして、さらに一歩進めて、あの責任は・・・・・・と言明しております」と、事実について話し始めた。続いて皇帝は「誰の責任なのだ? 誰のせいなのだ?ぜひそれを知りたい!」と、さらに促し、イルヴォワはついに「陛下、ルイ16世の時には、こう言われたものでございます。『あれはオーストリア女のせいだ』と」と話した。皇帝はさらに「そのとおりじゃ。さあ、続けるがいい!」と促した。 イルヴォワは皇帝から再三促され、ついに「それが今ではこううわさされているのです、『あれはスペイン女のせいだ』と」と事実をありのままに話した。
[編集] 晩年
[編集] 関連項目
[編集] メモ
1857年6月27日、ドイツ出身の天文学者ヘルマン・ゴルトシュミットは、小惑星を発見して彼女の名にちなみ(45)ウージェニアと命名。その後、1998年にウージェニアに衛星が発見され、2003年に彼女の息子ユジェーヌ・ルイ・ナポレオンにちなみ、プティ・プランス((45) Eugenia I Petit-Prince)と命名された。Template:生没年