エマ・ハミルトン
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エマ・ハミルトン (Emma,Lady Hamilton,1765年4月26日 - 1815年1月16日)は、ホレーショ・ネルソン提督の愛人。
[編集] 生涯
チェシャーでエイミー・ライオンとして生まれる。父のヘンリーは彼女が生後二ヶ月の時に死亡し、正規の教育を受けたことのない母メアリー・キッドに育てられた。のちに彼女はエマ・ハートと名前を変えた。
1782年に17歳となったエマは、ロンドンの社交界で公娼、また絵画のモデルとして知られていた(1780年に、パトロンだった貴族との間にエマ・カルーと名付けられた娘を生んでいる。エマ・カルーはウェールズの祖母に育てられたが、成長すると母に会うことを熱望する。しかし、その時には母親は借金にまみれており、エマもコンパニオンか住み込み家庭教師として、国外で働くことを余儀なくされた)。
やがて、エマはチャールズ・グレヴィル(1749年-1809年)という貴族と恋に落ち、同居するようになった。彼は初代ウォーリック伯の息子で、友人の画家ジョージ・ロムニーに彼女を紹介し、何枚かの絵を描かせている。1786年、裕福な妻を見つけ正式な結婚をすることを決意したグレヴィルは、エマを連れてナポリへ向かった。そこには叔父にあたるウィリアム・ハミルトン卿が公使として駐在しており、彼にエマを愛人とさせ、叔父の再婚を阻止し、自分もエマを厄介払いしようとしたのである。
ウィリアム卿は、すっかりエマに魅了され、グレヴィルにとっては衝撃だったが、1791年9月に卿はエマと正式に結婚した。ウィリアム卿の愛人だった頃から、エマは自ら「アティチュード」と呼んだ、ポーズや踊り、演技を取り混ぜた見せ物で人気を得ていた。数枚のショールを使い、ギリシャ神話のメディアから女王クレオパトラまで、多くの古典的な題材を見せたのである。彼女の演技は、貴族・芸術家・作家を魅了した。その中にはゲーテも含まれていた。王や王妃たちのみならず、新しい舞踊の流行はヨーロッパ中に広まり、彼女の着たギリシャ風のドレープのたっぷりとしたドレスも知られるようになった。
エマは、ナポリ王妃マリア・カロリーネと友人関係となった。1793年、フランス軍に対して援軍を集めてやってきたホレーショ・ネルソンを、ナポリ公使夫人として歓迎した。五年後、アブキールの戦いで戦勝してネルソンは再びナポリへやってきた。彼の容貌は様変わりしていた。彼は片腕と歯のほとんどを失い、ひとしきり続く咳に悩まされていた。エマは彼と再会すると、異様な容貌に失神してしまったという。ほどなくして、エマとネルソンは恋に落ちた。周囲には寛大に見られており、エマの夫ウィリアム卿もそうだった。
1801年、エマは、ピカデリーにウィリアム卿が借りた家でネルソンの娘、ホレイティアを出産した。同年の秋、ネルソンは現在のウィンブルドン郊外にあたるマートン・プレイスに、倒れそうな古い家を購入した。二人は、ウィリアム卿とも開けっぴろげに生活し(時にはエマの生母も加わった)、この不思議な世帯は一般庶民の関心を呼んだ。新聞は彼らの動向や、エマのファッション、家の内装、ディナーパーティーのメニューまで掲載した。
1803年にウィリアム卿が亡くなり、ネルソンも第二子妊娠中のエマを残して海へ戻った。エマは孤独で、ネルソンの帰りを待って物狂いのようになった。エマの生んだ女の赤ん坊は数週間しか生きられず、空っぽの心を抱えてエマはギャンブルや金の浪費に日々を過ごした。
1805年にネルソンが戦死すると、エマは借金地獄に陥った(亡夫の残したささやかな年金すら食いつぶしていた)。ネルソンは遺産を弟ウィリアム(のちの初代ネルソン伯)に遺贈しており、エマにはマートン・プレイスの家が残されたが、それすら抵当に入った。ネルソンは国家の英雄として祭り上げられ、彼がエマとホレイティアを扶養するよう命令していたにもかかわらず、母子は無視されてしまった(富も栄誉も、相続人であるネルソンの弟に与えられた)。
エマは債権者監獄に入れられ(一時期幼児のホレイティアも入っていた)、のちに債権者から逃れるためフランスへ渡った。彼女は酒に溺れ、困窮したまま肝臓をいためて1815年にカレーで死んだ。
[編集] ホレイティア
ホレイティアはその後、イギリス国教会の牧師フィリップ・ワードと結婚し、1881年まで生きた。二人は10人の子の親となった。ホレーショ、エリナー・フィリッパ、マーマデューク、ジョン・ジェームズ、ネルソン、ウィリアム、エドムンド、ホレイティア、フィリップ、キャロラインである。
[編集] トリビア
- イタリア料理のデザート、ズッパ・イングレーゼは、イギリス料理の菓子・トライフルの洋酒につけた別バージョンだが、これはナポリ時代にエマが始めたという。