クレオパトラ7世
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クレオパトラ7世フィロパトル(紀元前70年12月または紀元前69年1月-紀元前30年8月12日)は、古代エジプトプトレマイオス朝最後の女王である。プトレマイオス12世アウレテスの娘にあたる。「クレオパトラ」の名はギリシャ語で「父の栄光」を意味する。
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[編集] 略歴
紀元前51年、クレオパトラ7世は、父プトレマイオス12世の死去を受けて、王位(ファラオ)を継承し、エジプトの単独統治を開始した。クレオパトラ7世には、2人の姉がいたが、ともに早世・処刑などで死去したため、プトレマイオス12世の生存する子女のうち最年長であったクレオパトラ7世がファラオに即位したとされる。
その後、クレオパトラ7世は、エジプト王家の伝統に従い、弟プトレマイオス13世(在位、紀元前51年-紀元前47年)と結婚して、共同統治を開始したが、ローマの外圧やプトレマイオス13世、プトレマイオス12世の別の娘の、妹アルシノエら肉親との権力闘争に悩まされた。
[編集] カエサルとの出会い
紀元前48年の春、共同統治に不満を持つプトレマイオス13世がクレオパトラ7世をアレキサンドリアから追放した。おりしも、ポンペイウスを破ってエジプトに入ったユリウス・カエサルに密会。この際彼女は自らを絨毯にくるませ、カエサルのもとへ贈り物として届けさせたという。こうしてクレオパトラがカエサルの愛人となり助力を得たことで、反ローマ勢力であったプトレマイオス13世を攻撃してナイル川に溺死させた。この時、プトレマイオス13世と結託し、クレオパトラと敵対していたアルシノエは、ローマ軍に捕らえられ、ローマの凱旋式で引き回された。
プトレマイオス13世敗死後、クレオパトラ7世は別の弟プトレマイオス14世と結婚して共同統治を再開したが、カエサルとの間に情交を重ね、紀元前47年、息子カエサリオンをもうけた(カエサル父親説については異論もある)。プトレマイオス14世との共同統治は、カエサルの後ろ盾を得て成立しており、実際はカエサルの傀儡であるクレオパトラ7世による単独統治が実像であった。
紀元前46年、クレオパトラ7世とカエサリオンは、凱旋して独裁官に就任したカエサルに招聘され、ローマに滞在した。カエサルの庇護の下に平穏な日々を過ごすローマ滞在であったが、紀元前44年、カエサルが暗殺されると、クレオパトラ7世はカエサリオンを連れてエジプトに帰国した。
[編集] カエサル死後
クレオパトラ7世は、嫡子のいないカエサルの後継者にカエサリオンを望んでいたが、カエサルは、庶子に当たるカエサリオンを後継者に指名することはなかった。紀元前46年、既にカエサルは遠縁の養子ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスを後継者と定めていたのである。
クレオパトラ7世のエジプト帰国前後、名目上の共同統治者であったプトレマイオス14世が死去すると(死因不明、クレオパトラ7世による毒殺説もある)、クレオパトラ7世は、幼いカエサリオンを共同統治者に指名した(プトレマイオス15世、在位、紀元前44年9月2日-紀元前30年8月12日)。
エジプトとローマの同盟関係はクレオパトラ7世とカエサルの個人的信頼関係によるところが大きかったため、エジプトはローマとの同盟政策を見直す。カエサル暗殺の混乱を経てオクタウィウスとマルクス・アントニウスの間に権力闘争が開始されると、クレオパトラ7世はアントニウスに接近した。アントニウスが、エジプトに近接するシリアなどの東方地域に勢力を持っていたため、クレオパトラ7世はアントニウスと利害が一致し、これと同盟したのである。 また、クレオパトラは、小アジアのエフェソスにあるアルテミス神殿に逃げ込んでいたアルシノエを、アントニウスに頼んで殺害させた。
エジプトと同盟したアントニウスは、政略結婚していたオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、アレキサンドリアでクレオパトラ7世とエジプト式の結婚式を挙げた。その後、2人の間には紀元前39年に双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオスと、クレオパトラ・セレネが、紀元前32年には、もう一人の男の子のプトレマイオス・フィラデルフォスが誕生し、アントニウスはローマに帰還することなくアレキサンドリアに滞在し続けた。エジプトで凱旋式を挙行したり、エジプトに墓を持つことを望むなど(これはアントニウスが書いたとされる遺言状をオクタウィアヌスが公開させたものなので真偽は定かではない)、まるでエジプト人のように振舞っているアントニウスに失望したローマ市民は、アントニウスとの決戦を望んでいたオクタウィアヌスを強く支持するようになった。最終的にオクタウィアヌスがアントニウスに宣戦布告したときそれは私闘ではなく「ローマ対エジプト」の構図になっていた。
[編集] アクティウムの海戦での敗北〜自殺
紀元前31年、クレオパトラ7世・アントニウス連合軍とオクタウィアヌスが率いるローマ軍が、ギリシャのアクティウムで激突した(アクティウムの海戦)。この海戦に敗れたアントニウスは、戦線を離脱してエジプトに帰還するクレオパトラ7世の船を追って敗走した。ローマ軍から、部下を置き去りにし女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、さらに追撃してきたローマ軍に完敗して、アレキサンドリアに逃げ込んだ。
敗走の中でクレオパトラ7世死去の誤報に接したアントニウスは、自殺を図り、瀕死の状態でクレオパトラ7世の元に送られ、息を引き取った。クレオパトラ7世自らは、オクタウィアヌスに屈することを拒み、墓の中でコブラに身体を噛ませて自殺したと伝えられている。さすがのオクタウィアヌスも彼女の「アントニウスと共に葬られたい」と言う遺言だけは聞き入れたようである。
エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、捕らえていたカエサリオンを処刑し、プトレマイオス朝を滅亡させ、エジプトを皇帝直轄地(エジプト属州)としてローマに編入した。ちなみにクレオパトラがアントニウスともうけていた他の子供達はアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、オクタウィウスの親戚として厚遇されている。カエサリオンのみオクタウィウスと同じく「カエサルの後継者である」可能性を持つため殺されてしまったのだ。
[編集] 人物
- フランスの哲学者ブレーズ・パスカルによれば、クレオパトラ7世がその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら(※正確には、短かったら 鼻参照)歴史が変わっていた」と評した。一方、古代ローマ時代の歴史家プルタルコスは、クレオパトラ7世を、複数の言語(ギリシャ語・エジプト語・シリア語・パルチア語・アラビア語・ラテン語など)に通じた政治・軍事・外交に長けた高貴で知的な女性として伝えている。ちなみに容貌については「美貌も若さもオクタウィアに適うものではなかった」と評している。
- 現在、多くの人から世界で最も美しい女性であったと認識されている人物であるが、近年の研究から疑問を呈する者もいる[1](美の基準が人、地域、時代などによって異なることにも注意しておかなければならない)。彼女は魅力的であったが、それは雰囲気や優雅で穏やかな話し方によるものであったとも言われる。
- なお、映画や挿絵などではエジプト人のような姿で描かれることがあるが、そもそもプトレマイオス王朝はギリシア人の家系であり、これは誤ったイメージである。
[編集] クレオパトラが登場する作品
[編集] 映画
- クレオパトラ (1934年の映画) − パラマウント映画が1934年に製作した映画。
- クレオパトラ (映画) − 20世紀フォックスが1963年に製作した映画。エリザベス・テイラーが演じる。
- クレオパトラ (アニメ映画) − 虫プロダクションが1970年に製作した劇場用長編アニメーション映画。
[編集] 小説
[編集] 戯曲
- 「アントニーとクレオパトラ 」 − シェイクスピア作。
[編集] 漫画
[編集] 舞台
[編集] 参考
カテゴリ: プトレマイオス朝のファラオ | 共和政ローマの人物 | 自殺した人物