エレナ・ドキッチ
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エレナ・ドキッチ |
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基本情報 |
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英語名 | Jelena Dokić |
国籍 | ![]() |
出身地 | ユーゴスラビア・ベオグラード |
居住地 | オーストラリア |
生年月日 | 1983年4月12日 |
身長 | 175cm |
体重 | 60kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1998年 |
ツアー通算 | 9勝 |
シングルス | 5勝 |
ダブルス | 4勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | 3回戦(1999) |
全仏 | ベスト8(2002) |
全英 | ベスト4(2000) |
全米 | 4回戦(2000・01) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 4位 |
ダブルス | 10位 |
Template |
エレナ・ドキッチ(Jelena Dokić, セルビア語:Јелена Докић , 1983年4月12日 - )は、旧ユーゴスラビア(現セルビア)・ベオグラード出身の女子プロテニス選手。1999年ウィンブルドンの大会開始時は「エレナ・ドキック」と呼ばれていたが、自分がユーゴスラビアで生まれた時の発音で呼んでほしいという本人の希望により「ドキッチ」と呼ばれるようになった。これまでにWTAツアーでシングルス5勝、ダブルス4勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス10位。身長175cm、体重60kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。一方、矛盾の多い言動や父親ダミルの度重なる奇行など、コート内外でトラブルの多い選手でもある。
ドキッチは故国ユーゴスラビアの先輩モニカ・セレシュに憧れて7歳からテニスを始め、11歳の時に内戦を逃れてオーストラリアに移住した。ジュニア時代、1998年全米オープンの女子ジュニアシングルス部門で優勝がある。全米ジュニアの直後に日本の大阪で開催された「世界スーパー・ジュニア・テニス選手権」で優勝するなど、早くからオーストラリア女子の新星として有望視されていた。
1999年全豪オープンで4大大会にデビュー。地元の女子選手として主催者推薦を受け、3回戦で第2シードのマルチナ・ヒンギスに挑戦した。5ヶ月後のウィンブルドン選手権で予選を勝ち上がり、6月22日の1回戦でヒンギスを 6-2, 6-0 で圧倒して一躍有名になった。この大会ではベスト8まで勝ち進んだが、“予選勝者対決”になった準々決勝でアレクサンドラ・スティーブンソン(アメリカ)に敗れる。ウィンブルドン選手権の終了後、2000年シドニー五輪の「オリンピック大使」に任命された。
ところが、ドキッチは翌2000年の全豪オープン1回戦でリタ・クチキス(ハンガリー)に敗れた後、クチキスに対する暴言が発端となって一連の“舌禍事件”を起こしてしまう。この後ウィンブルドンでベスト4に進出したが、これがドキッチの4大大会シングルス自己最高成績である。オリンピック大使を務めたシドニー五輪では女子シングルス準決勝まで進出したが、ロシア代表のエレナ・デメンティエワに 6-2, 4-6, 4-6 の逆転で敗れ、準決勝敗退選手2名による「銅メダル決定戦」でもモニカ・セレシュに 1-6, 4-6 で敗れたため、銅メダルを逃した。同年末に国籍を故国ユーゴスラビア(セルビア・モンテネグロ)に戻し、7年間住んだオーストラリアを離れた。
2001年5月、ドキッチは「イタリアン・オープン」の決勝でアメリ・モレスモを 7-6, 6-1 で破り、WTAツアー初優勝を果たした。続く全仏オープンでは、コンチタ・マルチネスとペアを組んだ女子ダブルスで準優勝がある。同年9月に日本の「トヨタ・プリンセス・カップ」で初優勝を飾り、10月上旬の「クレムリン・カップ」でも優勝した。2002年8月に世界ランキングを自己最高の4位に上げたが、この後ドキッチのテニス成績はすぐに急降下してしまう。2003年のウィンブルドン3回戦でマリア・シャラポワに敗れ、この選手に躍進のきっかけを与えたのはドキッチであった。
2005年12月、ドキッチは再び「オーストラリア」国籍でプレーする意向を表明し、彼女が今なおセルビアとオーストラリアのはざまで悩んでいる様子が明らかになった。