ベオグラード
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ベオグラード(セルビア語: Београд, Beograd; ハンガリー語: Nándorfehérvár, Belgrád) は、セルビアの首都。かつてのユーゴスラビア (1918年-2003年) およびセルビア・モンテネグロ (2003年-2006年)の首都である。人口は2002年の統計で約120万人、郊外の人口を含めると約1,717,800人。
サヴァ川がドナウ川に合流する地点、中部セルビアの北部に位置する。座標は北緯44.83°、東経 20.50°。
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[編集] 歴史
紀元前3世紀よりケルト人が、のちにローマ人が住んだ入植地シンギドゥヌム w:Singidunum を起源とする。東ローマ帝国の領土となったが、フン族、サルマティア人、アヴァール人らに征服された。630年頃、現在のセルビア人が移住してきた。878年ベオグラードは「ベリグラード」(Beligrad, 白い城の意)の名で初めて文献に登場する。このときの支配者はブルガリア王国であった。のちに再び東ローマ帝国の領土となり、またブルガリア王国の領土となる。そののちベオグラードはセルビア王国の都市として知られるようになる。
ベオグラードを支配した最初のセルビア人の王はドラグティン(1276年-1282年)であった。ベオグラードは贈り物としてハンガリー王からドラグティンに贈られた。のち何度かのハンガリーによる占領をこうむった他、1521年にはオスマン帝国に占領された。ほぼ3世紀の間、ベオグラードはオスマン帝国の一部となった。17世紀後半から18世紀にかけて、オーストリアから何度か占領されたのち、セルビア全土でオスマン帝国に対する抵抗運動が起き、1817年セルビアは自治権を獲得し、ベオグラードが首府とされた(1818年から1839年を除く)。
1878年セルビアは完全な自治を獲得し、1882年王国としての地位を認められた。これによってベオグラードはバルカン半島の重要な都市となった。しかしながら都市の規模は比較的小さく、1900年の人口はわずか6万9千人であった。
第一次世界大戦でオーストリア帝国とドイツに占領されたのち、ベオグラードは大戦後に成立したユーゴスラビア王国の首都として急速に発展した。
第二次世界大戦では、1941年4月6日枢軸国側に空襲を受け、ただちに侵攻された。ベオグラードは1944年10月20日までドイツの占領下におかれ。このときベオグラードを解放したのはユーゴスラビアのパルチザンと赤軍であった。冷戦下、ベオグラードはユーゴスラビア連邦の首都として、工業の中心地として発展した。なおユーゴスラビア連邦の首都としてはサラエボも候補として検討されたことがある。
1999年、ベオグラードの市街はNATO軍に空襲を受けた。攻撃は国際法規にかなって行われるはずであったが、中国大使館が攻撃を受け、大使館員が死亡した。このため中国はNATO諸国に抗議し、これは大きな国際問題となった。NATOは後に、誤爆であることを公式に認め、地図が古かったためと釈明した。
2000年、ベオグラードは当時の大統領ミロシェビッチに対する大規模な民主化要求運動の中心となった。
紀元後1年以来、ベオグラードは54回の攻撃を受けている。これは平均で37年おきであり、ベオグラード市民は一生に二度、外からの攻撃を経験するということに等しい。
[編集] 交通
[編集] 気候
ベオグラードの気候は特に快適とはいえない。冬には冷たい季節風が吹く。一方夏には30度を超える高温となる。快適といえるのは5月、9月、10月である。しかしベオグラード市民は都市に深い愛着をもっており、この三ヶ月に関していえばベオグラードは世界でもっとも美しい都市であると信じている。
[編集] 関連項目
[編集] 姉妹都市
[編集] 外部リンク