エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
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エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein, 1887年11月24日 - 1973年6月10日)はドイツの第二次世界大戦中の陸軍元帥であり、最も有能な戦略家の一人。彼は1940年の西方電撃戦( 秘匿作戦名:黄の場合)の立案者であった。後に彼はクリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、その後、南方軍集団の第11軍の司令官となった。ドン軍集団司令官として彼はブラウ作戦によるスターリングラード攻防戦後に優位に立つソ連軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させた。これは東部戦線における最も大きな勝利の一つである。
彼は、ヒトラーの決定に逆らわなかった。しかし、対案を具申し、ヒトラーに対してはっきりと意見を開陳する数少ない将軍の一人だった。対ソ戦略を巡るヒトラーと見解の相違は、ついには1944年の解任に結びついた。
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[編集] 生い立ち
マンシュタインは、プロイセン貴族のエドゥアルト・フォン・レヴィンスキー砲兵大将 (1829-1906)とヘレーネ・フォン・シュペリンク (1847-1910)夫妻の十番目の子供フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキーとして生まれた。母ヘレーネの妹ヘドヴィヒ・フォン・シュペリンク (1852-1925)はゲオルク・フォン・マンシュタイン中将 (1844-1913)と結婚していたが、彼らには子供がなく、エーリッヒは生まれる前から彼らの養子になることが決められておいた。これによって彼の姓はフォン・レビンスキー・フォン・マンシュタインという二重姓になる。エーリッヒが生まれた時、レヴィンスキー将軍はマンシュタイン中将に「本日、君は元気な男の子を得た。母親と子供は元気だ。おめでとう。」との電報を送った。
父親がプロイセンの将軍だっただけでなく、二人の祖父も将軍だった。母方の伯父はパウル・フォン・ヒンデンブルクと姻戚関係にあった。従って彼の出世は誕生時から保証されていた。彼は当時ドイツ帝国領であったフランスのシュトラスブルクの中学校(fr)に1894年に入学し、1900年にプローエンとグロス・リヒターフェルデ(ベルリン)の陸軍士官学校に入学、1906年3月に第3近衛歩兵連隊に士官候補生として入営し、1907年1月に少尉に任官、1913年10月にベルリンの陸軍大学に入学した。
[編集] 第一次世界大戦
第一次世界大戦、彼は西部および東部戦線に従軍した。1914年11月に彼はポーランドで負傷し、1915年に大尉に昇進、現役復帰し1918年の終戦まで第4騎兵師団、第213歩兵師団に作戦参謀(Ia)として勤務した。
[編集] ワイマール共和国から第二世界大戦開戦まで
大戦後1918年にブレスラウ(現在ポーランドのヴロツワフ)防衛義勇軍へ志願、1919年まで同地に勤務した。彼は1920年シュレージエンの地主の娘であるユッタ・シビレ・フォン・レーシュと結婚した。彼らは3人の子供、娘のギゼラ、二人の息子ゲーロとリュディガーがいた。長男ゲーロは1942年10月29日に東部戦線で戦死した。
マンシュタインは、ヴェルサイユ条約で兵力10万人に制限されたヴァイマル共和国の陸軍(de)に選び残された。彼は1920年に歩兵中隊を指揮、1922年に大隊長に昇進した。1927年には少佐に昇進、参謀将校となり、国外に研究旅行をした。1933年にナチスが政権を握り、ヴァイマル共和国時代が終わる。1935年にはヒトラーはヴェルサイユ条約を廃棄、再軍備宣言し、同条約で禁止される陸軍参謀本部を復活させた。
1935年7月1日、彼は復活した陸軍参謀本部の作戦課長に着任し、1936年10月1日に少将に昇進し、作戦課、編制課、訓練課、中央管理課を管轄する陸軍参謀本部の第一部長に昇任、第一部長が務める参謀次長として参謀総長ルートヴィヒ・ベック上級大将を補佐した。また、歩兵支援のために突撃砲の開発を提案した。第二次大戦において突撃砲はドイツの開発した兵器の内で最も成功し、安価な兵器であったとされている。
ベックとマンシュタインはドイツ陸軍における政治的影響を最小限に留めるようにナチ党とは距離を保っていた。このためか、またナチ党員でなかったためか、参謀総長昇任を目前にして陸軍参謀本部からドイツ東部のシュレージエンのリーグニッツの第18歩兵師団長に左遷された。
[編集] 第二次世界大戦
[編集] ポーランド
1939年8月18日に彼はポーランド侵攻に備えてゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将の南方軍集団の参謀長に任命された。作戦計画はギュンター・ブルーメントリット(Guenther Blumentritt)大佐が発展させた。ルントシュテットは装甲部隊の大半をヴァルター・フォン・ライヘナウ(Walter von Reichenau)指揮の第10軍に集中させ、ヴァイクセル川西岸のポーランド軍を包囲、殲滅するというマンシュタインの作戦計画を採用した。計画では南方軍集団の二つの軍、ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)指揮の第14軍とヨハネス・ブラスコヴィッツ(Johannes Blaskowitz)指揮の第8軍がライヘナウの側面をそれぞれ支援しポーランドの首都ワルシャワに進攻することとなっていた。マンシュタインはポーランドをソ連との緩衝地帯と考えていた。彼はポーランド戦の開始がドイツを二正面作戦に引き込むことを懸念した。
ポーランド戦は9月1日に開始され、成功裡に進展した。南方軍集団の管轄地域では、第10軍の装甲部隊は退却するポーランド軍を攻撃し、防御態勢に入る時間を与えなかった。側面を担当した第8軍はウッチ、ラドム、ポズナニのポーランド軍の集中を防いだ。マンシュタインはヴァイクセル川からワルシャワへ進攻するという当初の計画を変更し、ラドムのポーランド軍の包囲をルントシュテットに進言した。包囲は成功し、ポーランド軍の南部からワルシャワへの抵抗を取り除いた。
[編集] フランス
1939年末ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将のA軍集団の参謀長となったマンシュタインはブルーメントリット大佐とヘニング・フォン・トレスコウと共にフランス侵攻作戦を立案した。マンシュタインは戦車部隊が行動し難いと思われるアルデンヌの森林地帯を通過することで敵の意表をつき、ミューズ川の橋梁を確保し、英仏海峡に到達し、ベルギーとフランドル(フランダース)に展開する英仏連合軍とフランス本土を断ち切れることが出来ると考えた。計画は大鎌作戦と呼ばれた。
陸軍総司令部はこの作戦計画案を拒否したが、ヒトラーは革新的な作戦として修正案を採用した。作戦計画は後にマンシュタイン・プランと呼ばれた。しかし、マンシュタインは、またもドイツ東部に左遷された。第4軍を指揮したのはギュンター・フォン・クルーゲである。この部隊にはロンメル将軍の指揮する第7装甲師団も含まれていた。最初にアミアンの東を突破しセーヌ川に到達したのはマンシュタインの元部下たちだった。フランス侵攻は成功裡に終了し、マンシュタインは騎士十字章を受章した。
[編集] 東部戦線
ショーベルト上級大将が事故死した後、南方軍集団の第11軍司令官に任命された。ルーマニア軍2個軍を含む第11軍を指揮してクリミア半島のセヴァストポリ要塞を攻略し、1942年陸軍元帥に昇進した。
1942年末から翌年1月のフリードリヒ・パウルス上級大将の第6軍のスターリングラード脱出救援に失敗はしたがドン軍集団の指揮官として南部戦線の崩壊を食い止めたのみならず、迫りくるソ連軍を壊滅させ、優れた戦略眼と卓越した指揮能力を持つ司令官との名声を得た。この後も第三次ハリコフ攻防戦、クルスク戦に武功を挙げた。しかし、柔軟な戦略を説くマンシュタインに反して、ヒトラーは戦略的撤退を認めず、陣地死守に拘り、得られるはずの勝利のいくつかを無為に失った。ヒトラーの作戦指導への干渉は止まらず、彼は1944年3月を最後に第一線から退く。ヒトラー政権の転覆計画への参加を打診されたが、参画はしなかった。この時の彼の台詞「プロイセン軍人は反逆しない」は有名である。
1945年5月、ヒトラーの死後、大統領に指名されたカール・デーニッツ提督から、マンシュタインは連合国軍との降伏交渉を依頼されるが、これを断り、イギリス軍に逮捕される。イギリスの軍事法廷は1949年に禁固18年の刑を宣告したが、彼は健康上の理由で4年後に釈放された。その後、彼は新生ドイツ連邦軍の創成に尽力し、当時の西ドイツ政府の国家防衛委員会の顧問を務めた。1973年回顧録『Verlorene Siege(和訳:失われた勝利)』を遺してドイツ南部のイルシュハウゼンで死去した。
[編集] 文献
エーリヒ・フォン・マンシュタイン、本郷 健訳、2000『失われた勝利:マンシュタイン回想録』(上・下)、中央公論新社 ISBN 4120029549(上巻) / ISBN 4120029557(下巻)
カテゴリ: ドイツ第三帝国の軍人 | 1887年生 | 1973年没