カトヴィツェ
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カトヴィツェ(Katowice)はポーランドの都市。シロンスク県の県都で、同地方を代表する工業都市。ドイツ語ではカトヴィッツ(Kattowitz)。人口は約32万人(2004年末)。
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[編集] 地勢・産業
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シロンスク県、ラヴァ川沿いに位置する工業都市。炭田を有するほか、亜鉛・鉛なども採掘される。第二次世界大戦後、共産党政権が環境への配慮を欠いたまま工業生産の増加を図ったため、環境汚染が深刻なものとなった。しかし、東欧革命以後は、環境への配慮も見られるようになった。シロンスク大学(Uniwersytet Śląski w Katowicach)など、多くの教育機関が置かれているため、学生も多く居住している。近隣の都市としては、約70キロ東にクラクフ、30キロ南東にオシフィエンチムが位置している。オシフィエンチムには、アウシュヴィッツ強制収容所が残されている。
[編集] 歴史
中世初期のスラヴ人集落が街の起源と推測される。ポーランドのピアスト朝によって統治され、断絶後はハプスブルク家のもとにおかれた。史料上では16世紀末にカトヴィツェの呼称が確認できる。18世紀半ば、オーストリア継承戦争の際に、プロイセンによって併合された。1865年に都市としての地位を認められ、1873年にはカトヴィッツ郡(当時)の郡庁所在地とされた。(この間、1871年にプロイセンの主導でドイツ帝国が成立している。)シロンスク地方の豊富な地下資源にも支えられ、19世紀後半より急速な工業化が進んだ。第一次世界大戦で敗れたドイツは、シロンスク地方をポーランドに割譲することになり、カトヴィツェもポーランド領となった。(この際に住民投票も行われたが、ドイツ領にとどまるべきという意見が半数を超えたにもかかわらず、ポーランドに帰属することになった。)1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ユダヤ人地域のシナゴーグが破壊され、シロンスク博物館も破壊された。第二次世界大戦後、ポーランド領へと復帰した。
2006年1月28日、カトヴィツェ近郊の見本市会場の屋根が雪の重みで崩落し、多くの犠牲者を出した。
[編集] 交通
ヨーロッパの中央部に位置する鉄道、道路網の要所であり、ドイツ(ベルリンなど)やチェコ(プラハなど)へ向かう国際列車も往来する。カトヴィツェ国際空港があり、ウィーンなど周辺の主要都市と空路でも結ばれている。ローカル線で1時間程度南東に向かうと、オシフィエンチムにも到達する。
[編集] スポーツ
GKSカトヴィツェ(GKS Katowice)がカトヴィツェを本拠地とするサッカークラブ。カップ戦優勝などを果たす強豪だったが、4部リーグにまで降格した。
[編集] 姉妹都市
[編集] 主な出身者
[編集] 外部リンク