カブトシロー
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1962年3月24日 |
死没 | 1987年9月24日 |
父 | オーロイ |
母 | パレーカブト |
生産 | 佐々木倬 |
生国 | 日本(青森県十和田市) |
馬主 | 西山正行 →(有)志賀 |
調教師 | 久保田彦之(東京) |
競走成績 | 69戦14勝 |
獲得賞金 | 7380万9400円 |
1967年の天皇賞(秋)や有馬記念に優勝した名馬であるがムラ駆けが多く、『気まぐれジョージ』のニックネームで知られるエリモジョージと並び評される稀代の癖馬として有名で、人気になると凡走し人気が下がると好走して穴を開けることから『新聞の読める馬』とも呼ばれた。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 誕生
1962年3月24日、カブトシローは預託先(カブトシローの両親は共に西山正行(以降『会長』と表記)の持ち馬(オーロイは会長が輸入した種牡馬で、パレーカブトも会長が所持していた繁殖牝馬である)であったが、当時は自分の牧場を所持していなかった為に佐々木倬の牧場に預けられていた)の牧場で誕生した。 預託先で誕生したカブトシローは、小柄(事実、馬体重は最も重かった時でも452キロしかなかった)だった事もあり当初の評価は芳しいものでは無かった。 現・西山牧場社長である西山茂行(会長の息子)も、事情を知るまでは『何でこんな馬を買ったんだ?』と思っていた程であった。 そう言う事もあってか、会長がカブトシローを目にしたのはカブトシローが福島でデビューしてからであった。
[編集] 競走馬時代
カブトシローのデビューは、3歳時の福島(1964年7月19日)。 2走目に勝ち上がるもその後はなかなか勝てず、4歳時には何とか2勝を積み重ね皐月賞と日本ダービーにも出走しているが、皐月賞12着・ダービー5着といずれも敗れている。 戦後最大の八百長事件として名高い『山岡事件』が発生(1965年3月6日)したのもこの時期である(詳しい事は後述)。 その年の末にカブトヤマ記念で初重賞制覇を達成したが、本格化はせず翌春のオープンを最後に勝利から遠ざかっていく。
一時は20連敗を喫してしまい、6歳の春には訳あってカブトシローは会長の下を離れ志賀泰吉に金銭トレードされる事となった(裏事情は後述)。 だが、その年の天皇賞(秋)(東京競馬場改築工事のため、この年は中山での開催)では8番人気の人気薄(14頭立て)ながら内埒沿いから抜け出し勝利を収め、続く有馬記念でも向う正面からのスパートでリユウフアーロス・スピードシンボリ等の強豪を抑え同レース史上最大着差(当時)となる6馬身差で圧勝した。
この後人気が上がったアメリカジョッキークラブカップ・オープンでは敗れ、2番人気に落ちたオープンでは大差で圧勝する等ムラな所を見せ『新聞の読める馬』と呼ばれるようになる。 その後は大レースには勝てず、7歳を最後に引退した。 因みに、引退レースとなった有馬記念は5番人気で出走、結果は10着(ブービー)であった。
[編集] 引退後
引退後は日本軽種馬協会で種牡馬入り、九州で繁殖生活を送ったが、種牡馬登録を抹消する際に殺処分されそうになるところをファンの猛抗議で救われ、その後1987年老衰により死亡するまで日本軽種馬協会で功労馬として宮崎で余生を送った。 産駒にゴールドイーグル(大阪杯・マイラーズカップ)等がいる。
[編集] 血統表
カブトシローの血統 (ハイペリオン系/Gainsborough4×5=9.38% シアンモア4×4=12.50%(母内)) | |||
父
*オーロイ Auroy1957 鹿毛 |
Aureole 1950 栗毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Angelola | Donatello | ||
Feola | |||
Millet 1949 鹿毛 |
Mieuxce | Massine | |
L'Olivete | |||
Kannabis | Phideas | ||
Hempseed | |||
母
パレーカブト 1955 栗毛 |
イーストパレード 1944 鹿毛 |
アヅマダケ | *トウルヌソル |
*星浜 | |||
エツフォード | *シアンモア | ||
越龍 | |||
明徳甲 1941 鹿毛 |
カブトヤマ | *シアンモア | |
アストラル | |||
*メイビイソウ | Jack Atkin | ||
Eureka F-No.27-a |
[編集] 名前の由来
カブトシローの名前の由来であるが、『カブト』は祖母の父に当たる名馬・カブトヤマから採られたものである。 更に、冠名の『シロー』は、当時会長が銀座で所有していたナイトクラブの名前からである。 因みに、会長曰く「『シロー』は当時日本で一番高く一番美人が多い店だった!」と言わしめた自慢の店であった。 そう言う訳で、牝馬でも『シロー』の冠名を付けた馬がいた(代表例:キシュウローレル骨折転倒にイットーが巻き込まれて大波乱となった京都牝馬特別を制したアイテイシロー)が、現在では紛らわしい名前は御法度となっている為か、『シロー』の冠名は使われていない。
なお、マジンガーZの主人公『兜甲児』と弟『兜シロー』の名前は本馬に由来している。
[編集] 山岡事件
山岡事件(やまおかじけん)とは、カブトシローの4歳時に発生した日本中央競馬会史上最大と言われる不正事件(八百長)の事である。 寺山修司の『カブトシロー論』を始めとする多くの競馬随筆や記事で、カブトシローについて語る際に併せて記される事が多い事件である為、本項にて併せて説明する。
昭和40年3月6日東京競馬第8競走・たちばな賞でカブトシローに騎乗する山岡忞(やまおか・つとむ)騎手は暴力団員と手を組み、レース前に本命馬であるサンキュウプリンスに騎乗する中沢一男騎手を饗応し、サンキュウプリンスを不正に敗退させる様に指示した。 中沢は現金と背広を贈られたものの、八百長を渋り出した為に監禁され暴行も加えられたと言われている。 そして、たちばな賞では山岡の騎乗するカブトシローが勝利、中沢のサンキュウプリンスは終始後方のまま良い所無く敗退した。 1着カブトシロー・2着アオバ・連勝式配当1610円で、この時点では競馬ではよく見られる『有力馬の不調による小波乱』で終わった。
ところがこの年の夏、別の建設機械会社で起きた巨額横領事件に絡んだ恐喝事件で件の暴力団員が逮捕され、その供述からこの暴力団員たちが騎手を抱き込んで八百長工作を仕組んでいたという事実が明らかになった。 これを受けて警察および中央競馬会が調査に乗り出し、これに中沢騎手が告白した事で真相が暴かれた。 そして、当事者たちの供述により、たちばな賞の他に4月10日の第3競走のサラブレッド障害でも同様の不正敗退行為が行われていた事が明らかとなる。
警察の捜査により、主犯格の一人とされた山岡の他、中沢、高橋騎手の計3人が暴力団と繋がる形で不正敗退行為に携わった事が明らかとなり、山岡の他に暴力団員など2名が競馬法の贈賄罪で、中沢と高橋は同じく競馬法の収賄罪でいずれも9月13日に逮捕。 更なる調査で、たちばな賞の前走でサンキュウプリンスに騎乗していた関口薫騎手もこれに関与していた事が判明。 4名の騎手はいずれも永久失格処分となり、ターフを追われる事となった。 特に山岡については過去には天皇賞や有馬記念も制している一流の騎手であり、彼が逮捕された事は中央競馬会にとっても大きな衝撃かつ打撃となった。
また、中央競馬の他に南関東公営競馬にも捜査の手は及び、大井競馬場では騎手2名が同様の不正敗退行為を行ったとして逮捕されている。
この事件が及ぼした影響は極めて大きく、競馬公正確保を巡って国会では参考人質疑が行われる事態となり、特にギャンブルを嫌いそれを票稼ぎの手段としていた社会党などの左派系野党からの追求や競馬自体への攻撃は凄まじいものがあったと言う。 その影響もあって厩舎区画への出入りの制限の強化、出走予定の人馬の保護(騎乗予定騎手の調整ルーム入室による外部との接触の制限等)、競馬関係者の予想行為の禁止等、様々な規制が明文化される事となった。 また、日本中央競馬会における現在の様なトレーニングセンター方式での人馬の管理の方向を決定付ける一因になったとも言われている。
たちばな賞のカブトシローについてはあくまで馬は一所懸命走っており、馬の状態などに関する問題があったなどというものではない。 しかし、カブトシローの競走馬生活の中で起きた人気での敗戦・人気薄での勝利・落馬など数々の波乱の逸話の中の1つとして、この八百長が仕組まれたレースでの勝利も語られる事が少なくない。
[編集] 売却の真相
カブトシローの6歳時に起こった金銭トレードも、八百長事件に勝るとも劣らず有名な事件である。
一般的には『カブトシローは走らないから売り飛ばされた』と思われているが、実はそう簡単な話では無い。 当時、会長は1966年に自分の牧場(西山牧場)を開設したばかりで、生産馬の売込みを図っていた。 その時持ち上がったのが、志賀へのカブトシロー金銭トレードの話であった。 その金額は、当時の有馬記念優勝賞金(1200万円)に匹敵する1000万円と言う破格の金額であった。 これだけの高額(当時の1000万円は今の5000~7000万円相当)で売られた以上走らない筈は無く、トレードされた元愛馬の快走劇を見たくない会長側の事情もあり、トレード条件に『地方移籍』を出した程であった。 事実、落馬競争中止を除く2回の殿負けがあるが2桁惨敗は無く、堅実に賞金を稼いでくれるある意味馬主孝行な馬ではあったものの、1年以上連敗していた事実は変わりなく、この辺がトレードに発展した理由とも言えなくも無い。 ところが、地方移籍の予定だったが『調子が良いのでせめて年内だけでも…』と言う久保田彦之調教師の要望もあり、急遽中央での現役続行となった。 その結果が、天皇賞と有馬記念の劇走であった。 その後、両者(会長と志賀)の関係が気まずくなったのは言うまでも無い。
因みに、売却料は志賀の破産の為に半分しか支払って貰えなかったそうである。