カリグラ
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ガイウス・カエサル・ゲルマニクス(Gaius Caesar Germanicus、 12年8月31日 - 41年1月24日、在位37年 - 41年)はローマ帝国の第3代皇帝である。幼少の頃の愛称カリグラ又はカリギュラ(英:Caligula)の名前でよく知られているが、個人名からガイウス帝とも呼ばれる。
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[編集] 経歴
父は大ドルススと小アントニアの息子で第2代皇帝ティベリウスの養子となっていたゲルマニクス。母はマルクス・ウィプサニウス・アグリッパとユリアの娘大アグリッピナ。兄にネロ・カエサル、ドルスス・カエサル、妹にジュリア・ドルシラ、小アグリッピナ、ユリア・リウィッラがいる。
父ゲルマニクスはゲルマニア方面軍の司令官を務めており、カリグラは幼少期をローマ帝国のライン川の防衛線で過ごした。このときカリグラは兵士と同じ軍装姿であったため、軍団兵から小さな軍靴を意味するカリグラ(カリガ:軍靴)と呼ばれ軍団のマスコットとなっていた。
しかし19年父ゲルマニクスが死去、カリグラは母と妹とローマへ戻る。そしてアウグストゥスの妻リウィアのもとで、恐らく人質として、育てられる。母アグリッピナは夫ゲルマニクス殺しの張本人はティベリウスと信じていた。そしてティベリウスのカプリ隠居、リウィアが没すると小アントニアのもとで育てられる。カリグラは半ば幽閉状態ではあったが、姉妹達−小アグリッピナ、ドルッシラ、ユリア・リウィッラとは接触するのは許された。後世カリグラを批判する者はこの3人、とくにドルシッラとの関係が近親姦だったと言う。とくにスエトニウスはことのほかこの件を非常に綿密に描いている。
その後、カリグラはティベリウスのもと、カプリ島に送られる。この時カリグラはティベリウスには気に入られていた。この時の状況をスエトニウスは曲解して記述している。すなわちティベリウスはアウグストゥス、リウィアなど自分の邪魔をする者が誰もいなくなったのを幸いにカプリ島で思う存分変態行為を行っていたというのだ。本当にそうだったのかは分からない。ただ不人気であったティベリウス、カリグラのような皇帝には後世の人々から全ての真実は書かれはしなかったのかもしれない。噂という形式で古代の文章は通常に書かれているものだから。
この頃から親衛隊長官のセイヤヌスの権力は非常に増大し、ティベリウスに対して政治的包囲網を築き、他のユリウス家の血統と結びつきを強めようとしていた。しばしば国家反逆罪のもとで人々は裁かれ、老いたティベリウスはより神経質となり、かつて身を呈して命を救った事のあるセイヤヌスに依存するようになってきた。こういった国家反逆罪による処断はセイヤヌスの地位をますます強めていった。この状況の中でスエトニウスの言葉を借りるなら、カリグラはかなり早い時期から注意深く歩けるようになった−つまり知力では兄を勝り、演じる事が上手く、家族の誰もが感じない危険を肌で感じるようになり、そしてカリグラは帝位を狙う者が次々と斬られていく間、目敏く生き残ってきた−と記述している。そして母が流刑先で死に、兄2人は流刑先で殺害あるいは監禁先で餓死。セイヤヌスも粛正される。しかしカリグラは生き残った。
この時の状況をスエトニウスはこう書いている、すなわちカリグラは不遇の死を迎えた母や兄には無関心で、ひたすらティベリウスにへりくだる事に執着していた、と。カリグラ本人はこう答えている、あの時は自分が生き残るためにこのような態度を取らねばならなかった、ティベリウスに対する怒りで自分は一度ならず殺意を抱いた事がある、と。
31年カリグラはティベリウスの身の回りの世話を任され、33年にクァエストル職をティベリウスより与えられる。
ティベリウスの後継者候補達が次々とティベリウスより先にこの世を去ったため、ティベリウスの没時遺書によってカリグラは従弟のティベリウス・ゲメッルスと共に帝位の後継者に指名された。そして3月28日にローマに入る。老皇帝ティベリウス(死亡時77歳)の若き後継者(即位時24歳)として、カリグラの帝位継承はローマ市民の圧倒的な支持をもって迎えられた。ティベリウス治世の晩年の恐怖政治からティベリウスの人気はすこぶる低く、遺書でティベリウス・ゲメッルスと共同相続人として指名されていたが、元老院がそれを無視し、カリグラは単独の相続人となって、皇帝に就任した。彼は後にこのゲメッルスを殺害させている。
皇帝となって彼は寛大に事を進めていくと元老院で述べたが、この発言は政治的な意図であった。そして親衛隊に金を給付し、ティベリウスの反逆罪記録を破棄、流罪となっていた者を呼び戻し、ティベリウスが末期に行った反逆罪の乱用は過去のものとなると発表した。また剣闘士試合を開催し、市民の人気を得た。系統としてもカリグラは神君ユリウス・カエサル、神君アウグストゥスの子孫であり、人気の高かったゲルマニクスの息子であった。この事がさらに彼の人気を後押しした。
ティベリウスの緊縮財政政策を廃し、減税、剣闘士試合の復活など、市民におもねる施策を次々と行ったが、やがて財政破綻を招いた。その状況を打開するために燃料税など新たな税金を導入したり自分の名前を遺産相続人の項目に強制的に加えさせたりなどして急速な人心の離反を招いた。また、彼はいままでローマでは前代未聞だった女性(彼の妹)の神格化や自身の神格化を行おうとしたことでも知られる。皇帝の神格化自体は当時のローマでは珍しいことではなかったが生前の神格化はこれまた前代未聞であった。
41年、家族ともども近衛軍団の大隊長カッシウス・カエレアらにより殺害される。統治期間はわずか3年間であった。
暗殺後、一部の元老院議員は帝政を廃し共和政を復興させることも企てたが、近衛軍団がカリグラの叔父クラウディウスに忠誠を誓うと、この既成事実を承認するほかなかった。
[編集] 年表
- 12年8月31日 出生。
- 33年 母大アグリッピナ死去。
- 37年3月18日 即位。
- 37年10月 大病を患う。
- 38年 妹ジュリア・ドルシラ死去。
- 39年 国家財政破綻。
- 40年 妹の小アグリッピナとユリア・リウィアを自身の暗殺を企てたとして流刑に。
- 41年1月24日 殺害される。妻カエソニアと娘(名前不詳)も同時に殺される。
[編集] 残虐皇帝の由来
しばしば書籍などで妹達3人と近親姦を行ったという話がある。また、毒殺、レイプ、誘拐、殺人、内臓の抉り出し、生きながらの火あぶり刑など常軌を逸した残虐な皇帝としてカリグラの名前が挙げられる
ただ、それらの印象はスエトニウスの『皇帝伝』に拠をもち脚色を加えたカミュの戯曲『カリギュラ』などの「文学作品」、あるいはさらに性的な脚色を加えたポルノ系の「映画」である『カリギュラ』などからの印象論であろう。また、映画『カリギュラ』はカリギュラ効果(禁止されると、よけいにそれをやってみたくなる心理的な効果)と言う心理用語が出来るほどであったため、それがそのまま史実として流通してしまった可能性も高い。また、ドルシラが姉だという明らかに間違った噂も日本ではあるように、その情報も噂として流れる最中にどんどん捻じ曲がったものとなっている。
また、スエトニウスの作品自体が、百年も後にローマ市民の伝説となったカリグラ像であり、いわばスポーツ新聞やワイドショー的な潤色がなされた「ものがたり」である。ただし、後生に名を残した「暴君」カリグラの心像としては、まさに世の中に広く知られたものといえる。
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
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