ティベリウス
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ティベリウス (Tiberius) は、古代ローマ人の個人名。ただし「ティベリウス」のみでは以下のローマ皇帝を指すことが多い。個人名としてのティベリウスはティベリウス (個人名)を参照。
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル(Tiberius Claudius Nero Caesar, 紀元前42年11月16日 - 37年3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝で初代皇帝アウグストゥスの養子。皇帝となる以前の名前は実の父と同じティベリウス・クラウディウス・ネロ。
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[編集] 継子から後継者に
ティベリウスは同名の父ティベリウス・クラウディウス・ネロとリウィア・ドルシッラとの長男として紀元前42年に誕生した。父ティベリウス・ネロはローマ共和政末期の内乱においてオクタウィアヌスに敵対し、ブルートゥス派、ついでアントニウス派に属した。このため、まだ乳飲み子であったティベリウスは両親と共に各地を逃げ回らなければならなかった。
マルクス・アントニウスとオクタウィアヌスの間で協定が成立するとティベリウス一家はローマに帰還した。しかし、ローマではオクタウィアヌスが母リウィアとの結婚を望んだため両親は離婚し、リウィアはティベリウス・ネロとの子供を妊娠中であったにもかかわらずオクタウィアヌスと結婚した。ティベリウスは、母が結婚直後に出産した弟大ドルススと共に父のもとに引き取られ養育された。
青年に成長したティベリウスはすでにローマの第一人者の地位を固めていたオクタウィアヌスのもとで政務や軍務に服すことになった。紀元前29年8月に行なわれたアクティウム海戦の勝利を記念した凱旋式では、オクタウィアヌスの甥マルケッルスとともに凱旋車の牽き馬に騎乗し参加した。その後弟のドルススと共に軍団の司令官として各地に派遣され、自身が有能な将軍であることを証明しつづけた。
紀元前27年に元老院からアウグストゥスの称号を贈られたオクタウィアヌスは、自身の人格に依存している元首の地位を世襲させることによってローマ世界の安定を保とうと後継者を探し始めた。当初は甥マルケッルスと古くからの盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパが候補とされ、娘ユリアを最初マルケッルスに、マルケッルス夭折後はアグリッパに嫁がせた。アグリッパとユリアの間にガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルの男子が誕生するとこの二人の孫を有力な後継者候補と見るようになっていった。二人の孫の後見人としてアグリッパを考えていたアウグストゥスだがアグリッパが紀元前12年に死ぬと当時アウグストゥスの親類の中で最年長男子のティベリウスを後見人にと考えるようになった。当時ティベリウスはアグリッパと最初の妻ポンポニアの娘ウィプサニアと結婚しており、息子小ドルススをもうけるなど幸福な生活を送っていたが、アウグストゥスは二人を別れさせ寡婦となっていた娘のユリアとティベリウスを結婚させた。
ティベリウスはウィプサニアとの離別を深く悲しんだがユリアとの結婚を当初は受け入れた。しかしやがて夫婦仲は悪化し、その他様々な理由からティベリウスはロードス島に隠棲する。このロードス島の隠棲の間にユリアは姦通罪に問われてティベリウスと離婚させられローマから追放された。ティベリウスは紀元2年にローマに帰還するが、この前後に後継者候補であったガイウスとルキウスは夭折し消去法的にティベリウスは元首の後継者候補となった。紀元4年、ティベリウスはアウグストゥスの養子となる。その際、ティベリウスには実子小ドルススがあったにもかかわらず、弟大ドルススの息子で甥にあたるゲルマニクスを養子とさせられた。ゲルマニクスは、アウグストゥスの姉オクタウィアの娘小アントニアと大ドルススのあいだに生まれた子であり、ユリウス氏の血筋をひく人物でもあったからである。そして同年、ティベリウスに2度目の護民官職権が与えられた。
ティベリウスと同時にアウグストゥスの養子となったアグリッパの最後の男子アグリッパ・ポストゥムスが粗野を理由に養子縁組を破棄され追放されると、ティベリウスは事実上アウグストゥス唯一の後継者となった。
その後14年8月にアウグストゥスがノラの別荘で死去すると遺言状により遺産の相続者として指名された。
[編集] 元首として
アウグストゥスの後継者として、金融危機対策、辺境防衛網の確立など優れた行政手腕を発揮した。しかしながら、皇帝主催の戦車競技会を中止する等の財政引き締め政策を断行したため、ローマ市民、元老院の人気は低かった。 統治末期にはカプリ島に居を移し、近衛軍団長ルキウス・アエリウス・セイヤヌスを通じて統治を行ったため、彼の人気をさらに引き下げることとなった。37年、77歳にて病没するが、彼の死はローマ市民の歓呼をもって迎えられた。
[編集] 年表
- 紀元前42年 ティベリウス・クラウディウス・ネロとリウィアとの間に生まれる。
- 14年 第2代皇帝に就任する。
- 23年 息子の小ドルススが急死する。
- 27年 カプリ島に居を移す。
- 31年 セイヤヌス処刑。
- 33年 ローマでの金融危機に国家資金を投入する。
- 33年 イエス・キリストの処刑。
- 34年 アルメニアの統治問題にウィテリウスを派遣する。
- 37年 ミセヌムの岬に立つ別荘地で77歳にて病没。
[編集] 功績と汚点
- ローマ市東北部に親衛隊兵舎を新設し、それまで大隊単位で分散して配置していた近衛軍団を一箇所に駐留させた。この措置は近衛軍団の力を大きくし、のちに皇帝位を近衛軍団が左右する事態が頻発する原因の一つとなった。
- アウグストゥスの時代から28年にわたり戦役を続行していたゲルマニアに対してはライン川およびドナウ川において防衛線を確立した。また、同時期に東方で不穏な動きを見せていたパルティアに対しては、ゲルマニア戦線の総司令官だったゲルマニクスを派遣して、東方問題の原因となっていたアルメニアの王位継承問題を解決し、東方の安全保障を確立した。これらの施策により、帝国の防衛は確固たるものになった。
- 人材登用に優れた手腕を発揮し、出身地の分け隔てなく能力に応じて積極的に登用した。歴史家テオドール・モムゼンの言葉によれば、これらの人々は「ティベリウス・スクール」と呼ばれ、ネロの時代まで帝政ローマを支えていくことになる。
- 紀元27年、68歳のときにカプリ島に居を移し、死ぬまでここを離れることはなかった。皇帝が首都を離れたため政治は近衛軍団長セイヤヌスを経由することとなり、皇帝の書簡を承認するだけの元老院は完全に権威を失った。このことは元老院議員のティベリウスへの敵意を生んだ。なお、ティベリウスはアウグストゥスの後継者問題に起因して36才の時にもロードス島に7年間隠遁していたことがある。
- 紀元31年、帝位の簒奪を企てた近衛軍団長セイヤヌスの粛正に伴い、セイヤヌス派と目される63人に及ぶ元老院議員とその一派を「尊厳毀損法」(レックス・マイエスターティス)により断罪した。
- カプリ島に移ってからは性的に倒錯した生活を送ったとされる。情交の相手は男女を問わなかった、児童性愛を好んだなどスエトニウスによって伝えられているが、それ以前に書かれた記録にはそうした話は一切書かれていないため、現在の考古学者の間ではスエトニウスによる創作と言われている。
[編集] 後世の評価
- カプリ島に隠遁しての政治は元老院を軽視したものとして非難の対象となった。
- セイヤヌス派の粛清などは「恐怖政治」を行なったとしてタキトゥスの批判を受けた。
- 目立たない堅実な皇帝として評価される一方、財政支出の引き締めはローマ社会の貨幣流通量を減少させ不況の原因となった。
- 養父のアウグストゥスが死後に神聖化されたのに対し、ティベリウスの死はまったく尊ばれず軽んじられた死であった。(本人が遺書の中で固辞したといわれている)
[編集] 参考文献
- スエトニウス『ローマ皇帝伝(上)』國原 吉之助訳、岩波書店<文庫>、1986年、339頁、(下)、1986年、423頁。
- タキトゥス『年代記(上)』国原 吉之助訳、岩波書店<文庫>、1981年、447頁。(下)、1981年、425頁。
- 塩野七生『ローマ人の物語VII-悪名高き皇帝たち』 新潮社、1998年、507頁。
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