カルロス・ガルデル
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カルロス・ガルデル(Carlos Gardel, 1890年12月11日 - 1935年6月24日)は不世出のタンゴ歌手として知られるアルゼンチンの歌手・俳優であり、その人気の絶頂期に飛行機事故で急逝した事と相まって、現在なおタンゴ界の偶像というにとどまらずアルゼンチンの国民的英雄としての地位を不動のものにしている。
タンゴという音楽は1870年代から1880年代にかけアルゼンチンのブエノスアイレスでダンス音楽として生まれたとする説が有力視されている。 タンゴはその誕生時から詞を付けられ歌われてはいたが、詞はあくまでダンスの添え物的存在であり、詞の内容もたわいのないものだったという。そうした状態はガルデルの登場で一変、その美声と表現力によってタンゴ歌手として一世を風靡、後世のタンゴ歌手もみなガルデルをその目標に掲げるほどの大きな影響を残した。
ガルデルは歌のみならず、タンゴの作曲の世界でも名を残している。元々自分のレパートリーを広げるために始めた作曲だったが、ガルデルの作品は他のタンゴ楽団もこぞって取り上げ、現在でもタンゴ歌手のほとんどが程度の差はあれ、レパートリーにガルデルの作品を加えている。作詞家でガルデルの伴奏ギタリストも務めていたアルフレッド・レ・ペラとのコンビによる作品が特に有名で、『わが懐かしのブエノスアイレス』『ボルベール』などが代表作とされる。
ガルデルの出生地は一般的にはフランスのトゥールーズとされている。幼少時にフランスからアルゼンチンに移民したという説を採る者が多数派ではあるが、アルゼンチン出生説、ウルグアイのタクアレンボー出生説などが入り乱れており、ガルデルの生い立ちについてはよくわかっていない。生年も1890年以外に1887年説などがある。ただガルデルが私生児として生まれたという事のみは奇妙にもすべての出生説に共通しているようだ。
ガルデルのプロ・デビューは1911年、そしてその2年後の1913年に民謡歌手ホセ・ラサーノとデュオを組み、このデュオは1925年まで活動を続けた。このデュオでガルデルは多くの民謡も歌っているが、1917年に初めて歌った『ミ・ノーチェ・トリステ』(わが悲しみの夜)によって本格的なタンゴ歌唱を確立、次第に独自の道を歩む事になる。『ミ・ノーチェ・トリステ』はラテンアメリカでヒットを記録。ガルデルは、バルセロナ、パリ、ニューヨーク、ウルグアイ、チリ、ブラジル、プエルトリコ、ベネズエラ、コロンビアなど各地に演奏旅行を繰り返し、アルゼンチンに戻ってもすぐに海外に出発する活躍ぶりにアルゼンチンでは『偉大なる渡り鳥』というニックネームで呼ばれたという。ガルデルは歌や作曲ばかりでなく、俳優として映画にも出演。ガルデルが出演する映画の中では彼は必ず歌を披露し、歌のみならずその二枚目的風貌と相まって全スペイン語圏で彼の人気はますます高まっていく事になる。
1935年、ガルデルはニューヨークでの映画撮影を終え、アルゼンチンへの帰途についた。 アルゼンチンにたどり着くまでの道中にあたる南米諸国で、映画宣伝を兼ねたコンサートを催しながら、コロンビアまでたどり着く。そしてコロンビアのメデジン空港から飛び立とうとしたガルデル一行(伴奏ギタリストとしてアルフレッド・レ・ペラらも乗り合わせていた)の乗る飛行機は離陸に失敗、失速して墜落炎上し、ガルデルらは焼死した。