ガレアッツォ・チャーノ
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ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano, 1903年3月18日 - 1944年1月11日)は、コルテッラッツォ伯爵、ムッソリーニ政権下におけるイタリアの外務大臣、またムッソリーニの女婿でもあった。1943年7月のファシスト党大評議会でムッソリーニ解任を支持したことから後に逮捕され、銃殺刑に処せられた。
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[編集] 生涯
[編集] 外交官
ガレアッツォ・チャーノは1903年、軍港リヴォルノに生まれた。父コスタンツォは第一次世界大戦時海軍で活躍、大戦後はファシスト党の創設メンバーの一人ともなった人物であった。
チアーノは法学を修めた後、大使館員としてリオ・デ・ジャネイロに赴任、1930年にはムッソリーニの長女エッダと結婚、彼女を伴い総領事として上海に着任する。1932年の第一次上海事変に際しては日中両軍の調停に奔走した。
[編集] 外務大臣
イタリアに帰任後、1933年には新聞・宣伝省次官、1935年には同省大臣、そして1936年には33歳の若さで外務大臣に就任した。この間1935年の第二次エチオピア戦争においては空軍に従軍、爆撃行に参加するなど、ムッソリーニの後継者としての華々しいパフォーマンスが目立った。
彼は皇太子ウンベルトの信任も篤かった。この2人の友情関係はそれぞれの父、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とムッソリーニにとっても建設的で有意義なものと見做されていた。なぜならそれは王室とファシスト政権との微妙な関係の強化に寄与したし、やがて若い2人がそれぞれ国王と政権担当者としてイタリアを率いる運命にあったからである。
チャーノはイタリアをできる限り長い間、アドルフ・ヒットラーのドイツからの影響から遠ざけるという姿勢をとっていたが、この裏面には皇太子ウンベルトの了解もあったものと考えられている。ムッソリーニの家族と個人的な親交も深かったオーストリア首相ドルフースが1934年にオーストリア・ナチス党員によって暗殺されて以降、チャーノはヒットラーの目論見に関する警戒感を保持していたとみられる。彼とドイツ外相リッベントロップおよびヒットラー総統との一連の会談は1939年に「鋼鉄協約」なる同盟として結実したが、その過程で彼のドイツに対する疑念は一層深まり、ムッソリーニとも数度の激しい議論を交わすに至る。彼はその日記に「イタリアのためにはドイツの勝利を願うべきなのか、敗北を願うべきなのか、自分にはわからない」と記している。
その間イタリアはアルバニアを占領(1939年4月)し、チャーノは同地域の総督にも任命される。彼はアルバニアの完全併合を支持していたし、その統治手法は残忍冷酷なものだったとされている。そしてアルバニアにある際、彼の個人資産は「奇妙なことに、しかし目立たない形で」増大していった。
第二次世界大戦の勃発時、彼の反ドイツの立場はより鮮明であり(ヒットラー自身ムッソリーニに「あなたの家族の中には反逆者がいる」と警告したともいう)、彼はバチカンに使節として赴き、教皇と連絡をとっている。この際、彼はジョヴァンニ・モンティニ(後の教皇パウロ6世)と関係が密であり、彼を通じて敵対諸国との連絡が保たれていた。
[編集] 銃殺刑
1943年7月25日のファシスト党大評議会において、ムッソリーニに対する内部からの反対は遂に表面化する。チャーノは義父に対する反対票を投じる一員となり、ムッソリーニは失脚した。この政変の後、妻エッダは夫婦の亡命を試みるが、バチカンが庇護を拒絶するなどその望みは潰えた。結局、スペインへの逃亡を図った際にチアーノはドイツ軍によって逮捕され、大評議会でムッソリーニ反対票を投じた他のメンバーとともに、ヴェローナの監獄に収監された。その行動は反逆行為であると見做され、彼と他の4人の反逆ファシストは1944年1月8日-9日の公開裁判(会場は大評議会と同一のヴェローナ、ヴェッキオ城)によって有罪とされ、同月11日早朝、銃殺刑に処せられた。
ムッソリーニはこの義理の息子を助命する意思がなかったのか、あるいはそうしたくとも出来なかったのか、については後々まで議論がなされている。衆目の一致するところは、仮にムッソリーニがチャーノに恩赦を与えたなら、ムッソリーニ自身の政策の信頼性は大きく損なわれたであろう、ということだ。
判決を聞いた妻エッダは危険を冒して半島を自動車で縦断、はじめは共和国政庁で、そして監獄で夫の助命を懇願したが、空しく終わった。その後エッダは農婦の身なりでスイスに逃亡した。彼女は妊娠中であるとの特別許可証を入手、スカートの中にチャーノの日記を隠し持っていた。シカゴ・デイリー・ニューズ紙の戦争記者ポール・ガーリは彼女がスイス国内の修道院に潜伏中であることを突き止め、チャーノ日記の公刊を手助けした。同日記は1939年から1943年にかけてのファシスト政権下の多くの秘史を暴露しており、第一級の史料とされている(内容は政治関連に限定されており、チャーノの個人生活は殆ど含まれていない)。
[編集] 評価
チャーノの人物像はファシスト時代中でも最も議論の多いものの一つである。彼は空虚で、甘やかされて育ち、俗物的で、浅薄であり、そのアルバニア総督時代が示す通り収賄を好み、残忍であった。しかし一方で、彼は人生の最期においては、イタリアとドイツの同盟関係に勇気をもって反対した数少ない一人であった。また義父に不信任票を投じることで彼は個人的には孤独感に苛まれることにもなっただろう。ここでのパラドックスは、中庸的な道徳観念と、そこそこの知性を持ち合わせるに過ぎなかったチャーノが、最終的にはムッソリーニよりも鋭い政治的洞察力と、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世よりも確固とした個人的勇気を兼ね備えていた、ということにあった。
[編集] 関連項目
- ディーノ・グランディ