キャンプ千歳
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キャンプ千歳(きゃんぷちとせ)は、北海道千歳市柏台に所在するアメリカ陸軍の通信所である。現在はまったく使用されていないが、広大な跡地が遊休地化した在日米軍施設として残存している。
[編集] 基地概要
- 施設面積: 4,274,273m²
[編集] 概要
キャンプ千歳は陸上自衛隊東千歳駐屯地に隣接している。戦前の千歳周辺には、日本海軍の飛行場が存在した。現在の航空自衛隊千歳基地にあたる場所に1,200mの第1飛行場、現在の東千歳駐屯地内に2,500mの第2飛行場(通称「連山滑走路」)と1,200mの第3飛行場が存在し、第41海軍航空廠も設置された。
戦後、アメリカ軍が進駐すると、現在の千歳市の半分に相当する広大な土地が接収された。1949年には、オクラホマ州兵師団12,000人とアメリカ陸軍第7歩兵師団約7,000人が駐屯する巨大キャンプとなった。そして、1952年7月、日米の政府間協定に基づき、千歳にあるアメリカ軍への提供施設は「キャンプ千歳」となった。
しかし、1950年に警察予備隊東千歳駐屯地が、1952年に千歳駐屯地(現北千歳駐屯地)が開設されると、キャンプ千歳は大幅に縮小し、1954年に朝鮮戦争が終わると、アメリカ陸軍の駐屯部隊は本土への帰還を開始し、1956年までに完全に撤退した。
千歳飛行場は、航空自衛隊が誕生すると、第2航空団が浜松基地から移駐してきた。1958年には千歳基地の管制業務がアメリカ空軍から航空自衛隊に移管され、1959年には、千歳基地の管理業務も完全に委譲した。三沢飛行場の拡張が完了すると、千歳駐留のアメリカ空軍部隊も、三沢飛行場への移駐を開始し、キャンプ千歳はさらに大幅に縮小された。
1970年には通信所が閉鎖、1975年には最後に残されたOTHレーダー基地も閉鎖され、これによりキャンプ千歳からアメリカ軍は完全に撤退した。しかし、完全撤退の前年の1971年に「キャンプ千歳の共同使用等に関する日米政府間協定」が締結されたため、キャンプ千歳の残存敷地は、閉鎖後もアメリカ軍への提供施設のまま温存され、遊休地化された。施設が温存された理由は不明だが、極東有事の際に、アメリカ本土から展開した部隊の受け入れや、可能性がありうる、将来の在日米軍の再駐留に備える用地と推定される。