クラック・デ・シュヴァリエ
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クラック・デ・シュヴァリエとカラット・サラーフ・アッディーン |
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クラック・デ・シュヴァリエ | |
(英名) | Krak des Chevaliers and Qal‘at Salah El-Din |
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(仏名) | Krak des Chevaliers and Qal‘at Salah El-Din |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | 文化遺産(2),(4) |
登録年 | 2006年 |
拡張年 | |
備考 | |
公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
クラック・デ・シュヴァリエ(Krak des Chevaliers)は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。現代にも残っており、世界遺産に登録されている。十字軍時代は聖ヨハネ騎士団の本拠であり、名前は騎士(仏:シュバリエ)の砦(アラブ語:クラク)を意味する。
城はトリポリの東に位置した高さ650m程の峰に築かれており、アンティオキアからベイルートや地中海に出る唯一の通路を扼している。元々は1031年にアレッポの領主により建築されたが、第1回十字軍時の1099年にツールーズ伯レイモンにより落城した。その後、1144年にトリポリ伯から聖ヨハネ騎士団に譲られた。
聖ヨハネ騎士団は大規模な拡張を行い、コンセントリック(集中)型の城として、30mの厚さの外壁を加え、8ー10mの壁厚の7つの守備塔を配置した。12世紀の頃には濠も有しており、跳ね橋が取り付けられていた。外壁は内壁との間隔を狭くし、また直角の曲がり角を多くして、破城槌などの攻城兵器を持ち込みにくく使いにくいようにしてあった。
内門と外門の間には中庭が有り、内部の建築物に続いていた。内部の建築物は騎士団によりゴシック調に改造されており、ホールや礼拝堂を備え、長さ120mの食糧貯蔵庫を有していた。さらに、もう1つの貯蔵庫が地下に掘られており、5年間の包囲に耐えうると考えられていた。
1170年にはほぼ完成していたが、その後も地震により一部が崩れ、何度か再建が行われた。城には50-60人の騎士と2000人の歩兵が常駐していた。
1163年にヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退け、1188年のサラーフッディーンによる包囲にも耐えた。
しかし、1271年4月8日、バイバルスの調略により落城した。トリポリ伯が開城を勧めていると偽ったという。バイバルスの手により礼拝堂はモスクに変えられ、城は1291年のアッコン陥落時にも前線基地として使われた。
1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築いた。
後にアラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べている。城は十字軍美術(フレスコ画など)が保存されている数少ない場所となっている。現在はシリア政府の所有物で、2006年にカラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共に世界遺産に登録された。
[編集] 登録基準
この世界遺産は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (2) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する、建築様式、建築物群、技術の集積、または景観の優れた例。
[編集] ギャラリー
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