クレア・リー・シェンノート
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クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault、中国名・陳納徳、1893年9月6日-1958年7月27日)は、アメリカ陸軍航空隊大尉で中華民国軍の航空参謀長である。
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[編集] プロフィール
[編集] アメリカ陸軍航空隊
テキサス州コマースで生まれ、その後ルイジアナ州に移り住んだ。第一次世界大戦時にアメリカ陸軍航空隊で飛行機の操縦を身につけ、1930年代には訓練教官になる。その後1937年に「健康問題」を理由に退役する。
[編集] 「フライング・タイガース」

その後、1937年に日中戦争に突入した蒋介石総統率いる中華民国の国民党政府に、アメリカの支援によって設立された中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして、航空参謀長の地位(階級は大佐)で雇い入れられた。
その後、蒋介石総統からの軍事支援の要請を受けたフランクリン・D・ルーズベルト大統領の指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下に、アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group、AVG)を設立し、カーチスP-40などの戦闘機と、シェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロットを中国大陸に送る一方、国民党軍兵のパイロットの訓練に当たった。その後「フライング・タイガース」の愛称で知られることになったアメリカ合衆国義勇軍を指揮する。 詳細はフライング・タイガースを参照の事。
[編集] 民航空運公司
終戦後はアメリカ軍を退役し、1946年に中国共産党軍との間で再び国共内戦に突入した中華民国軍及び国民党政府のために、民間航空会社である民航空運公司(Civil Air Transport)を設立した。その後、1949年には国共内戦に敗北し台湾島に逃れた国民党政府とともに台湾島に渡り、CIAの後援の元に同社の運営を継続する。
その後同社は、朝鮮戦争やインドシナ戦争でアメリカ軍向けの軍事物資の運搬業務や諜報活動支援につく傍ら、ダグラスDC-4Bやコンベア880などの大型旅客機を運行し東京や大阪、香港やバンコクなどへの国際線を運行するまでになった。
[編集] 死去
その後シェンノートは1958年に死去し、ワシントンD.C.のアーリントン国立墓地に埋葬された。