フライング・タイガース
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フライングタイガース(Flying Tigers)(中国語繁体字:飛虎隊、簡体字:飞虎队、ピン音:Fēi Hǔ Duì)は日中戦争時に中国国民党軍を支援したアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)の愛称。
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[編集] 日中戦争の勃発
1937年の盧溝橋事件から日本と中華民国との間では急激に緊張が高まりつつあった。両国との間では戦闘と交渉が何度も行われたがその結果、日本は蒋介石の国民政府との交渉を拒否し、中国本土に日本の傀儡政権を作ることを模索し国民党政府とは本格的に戦闘状態(日中戦争)に突入した。戦争は1938年に入ると更に激しさを増し、日本軍による海上閉鎖と航空機による爆撃により中華民国軍の重要な貿易港であったマカオが日本軍により陥落した。日本軍はさらに中国沿岸の港を全て閉鎖し、1938年後半に入ると海上からの一切の補給路の閉鎖に成功した。海上からの補給路確保が困難となった蒋介石は、中国内地の 重慶に首都を移動させ抵抗を続けた。海上補給路を断たれた国民党政府はその補給もフランス領インドシナ(仏印、現ベトナム、ラオス、カンボジア)、タイ王国、ビルマなどから陸路と空路で細々と行うことしか出来なくなってしまった。(この蒋介石政権を支援する援蒋ルートを切断するため、日本軍はのちに北部仏印進駐を実施、日米関係を後戻りできないまでに悪化させた) 1939年に入り日本軍の作戦範囲は小規模となったがその間国民党軍はソ連製の航空機により日本軍の航空機に僅かに損害を与えていた。しかし爆撃機主体の攻撃だったことや1940年の秋ごろから投入してきた日本軍の新型機零式艦上戦闘機の投入により中国空軍の形勢は一気に不利になり、殆どの戦線で活動を停止させられるまでに至った。その後も日本軍の中国侵攻は更に進み、最終的には中国全土の実に1/3まで占領されてしまう。さらに国民党政府の臨時首都としていた重慶にも次第に日本軍の圧力が高まりつつあった。
[編集] 空軍参謀クレア・L・シェンノートの登場
1937年代、日本軍の脅威を感じていたこの頃に蒋介石は自国の軍備状況が他国に比べて遅れていることから、外国の新型武器・兵器の購入を行い、さらに外国から数人の外国人軍事顧問を雇い入れ軍備の近代化を図った。盧溝橋事件の数ヶ月前、ルイジアナ州出身の陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートもこの時、中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。
着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察、その間もシェンノートはいかに迫りつつある日本軍航空隊を退けるかを思案した。そして1937年、それまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。
派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。1940年の夏にシェンノートは中国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。
[編集] アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)の誕生
アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。またアメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で集められたアメリカのパイロットは計100名。しかし形こそは義勇兵としていたが、実質はアメリカ空軍のパイロットが殆どであった。またパイロット達全員は義勇の目的からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。またAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。
- 軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
- 中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
- 毎月600ドルを全てのパイロットに支給
- 月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給
パイロット募集の結果、シェンノートの元にはかつて彼と共に飛んだフライング・トラピーズ(陸軍統括の飛行部隊)のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。
募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多かった。そして部隊名は中国軍の関係者からは中国故事に習い彼らを「飛虎」と名づけ、世界からはワシントン中国援助オフィスが設立した「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。
[編集] 飛虎の活躍
出発の準備が揃ったシェンノートらAVGのメンバーは民間人としてビルマにむけ5~6週間かけて渡航し、現地にて正式に中華民国軍として兵籍に入った。そしてイギリス空軍からラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け、ここをAVGの本拠地とした。残りのAVGメンバーも1941年の11月に到着し木箱で輸送された彼らの戦闘機「カーチス P-40」の組み立てを始めた。シェンノートはまず部隊全体を三つの部隊に分けた。
- 第一戦隊「アダム&イヴ(1st Squadron Adam & Eves)」
- 第二戦隊「パンダ・ベアーズ(2nd Squadron Panda Bears)」
- 第三戦隊「地獄の天使達(3rd Squadron Hell's Angels)」
これら戦隊は部隊的にはお互い作戦は共同で行っていたが各戦隊は頻繁に移動を繰り返したため、部隊同士の接触は少なかった。またAVGパイロット全員のフライトジャケットの背中には中華民国軍を援助する米国人飛行士であることを示す認証が縫い付けられた(右図参照)。これはパイロットが戦闘で不時着などし、基地内への帰還が困難となった場合、現地民に救助を願う証票にもなった。
AVGの目的は蒋介石への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蒋ルート(ビルマ・ロード)上空の制空権の確保であった。この補給線を確保するためシェンノートはある作戦をたてた。それは「防御追撃戦略」といわれ敵爆撃機が目標に到着する直前に迎撃機を発進させ迎撃を行うものだった。しかし後から着任した彼の上官との間では彼らが爆撃機重視の見解に対し、シェンノートは戦闘機重視の戦闘を重視し、激しく意見が対立した。中でも中国戦区の参謀長であったスティルウェル陸軍中将はシェンノートに対し、「航空戦力では敵地上軍には損害は与えられない、爆撃機こそが唯一打撃を与えられる物だ、また戦争に勝利するのは塹壕にこもった歩兵である」と豪語、これに対しシェンノートは「塹壕に篭った歩兵など何処にもいません」と反論している。その後もスティルウェルとシェンノートとの対立は続き、シェンノートが唱える「防御追撃戦略」に対してもほかの戦歴を引用し、否決に追い込もうともさえした。
[編集] カーチスP-40ウォーホーク
AVGメンバーが使用した機体「カーチスP-40ウォーホーク」は低速で機動力が乏しく、軍関係者からは全体的に旧式であると非難されていた。このカーチスP-40ウォーホークをAVG向けにアメリカ軍は大量発注を行ったため、合衆国委員会ではこの発注に対し不正調査を行ったほどである。旧式と言われたP-40であるが経験豊富なパイロットからしてみれば扱いやすい機体でもあった。装甲の厚さと燃料タンクの自動シーリングは被弾ダメージを吸収し、多くのパイロットを生還させることが出来たしAVGにとってP-39エアコブラと共にまとまった数を揃えられた機体でもあった。これらの機体には機首の下の部分には北アフリカのイギリス空軍第112中隊の特徴である「サメの歯」をイメージしたペイントが施され、記章にはウォルト・ディズニー・スタジオのロイ・ウィリアムズによりデザインされた虎に翼が生えた記章が採用された。
シェンノートはP-40では空中戦で機敏な運動を行う日本軍の戦闘機に勝てないことを知っていた。そこで高高度から進入し近距離から射撃、一気に降下離脱する作戦を立て、その後再び高高度から攻撃位置を定め、再び降下攻撃を行うこの繰り返し行うことを定めた。この作戦は常に数的に劣勢であったAVGに大変有効な攻撃方法だった。武装に関してもP-40には0.3インチ×4と機首の0.5インチ機銃が装備され、他国の戦闘機に比べ威力こそ劣っていたが防御の薄い日本軍機に対しては有効であった。
[編集] 日本軍航空隊との最初の戦闘
国民党軍の駆逐を目標にタイに基地をおいた日本軍は1941年12月20日から盛んに爆撃機を飛ばしていった。この攻撃を防ぐためシェンノートは第一、第二戦隊をキェダウから北の昆明に移動、護衛機無で飛来してきた川崎製九九式双発軽爆撃機10機と遭遇し戦闘状態に入った。報告はさまざまであったがこの内AVGは5~9機の爆撃機を撃墜し、AVG側は損失1機(燃料切れで不時着、その後大破)という戦果を収めた。これは中国ビルマ戦線において日本軍における初めての作戦失敗となった。
シェンノートはその後現地中国人を使い日本軍航空機の早期警戒システムを作り、もし敵機を見かけた場合、現地人から無線などで敵機の進行コースなどをAVG司令部に連絡する方式だった。この警戒システムは非常に有効で日本軍が到着する前に正確な作戦を立てることができ、またAVG各部隊は適切な場所で迎撃を行うことが出来た。しかしビルマ方面ではこのシステムはうまく働かず、基地が日本軍により奇襲をうけた。 1941年の後半に入るとシェンノートは近くのイギリス空軍(RAF)に対してビルマの首都ラングーンの防衛目的のために第三戦隊「ヘルズ・エンジェルス」を貸し与え防衛させる。この第三戦隊はRAFと共に12月13日に始まったラングーンに向けた日本軍の波状攻撃の迎撃に参加した。合計120機以上の戦闘機と爆撃機によるこの攻撃にたいし、RAFとAVG第三戦隊、合計24機は圧倒的に劣勢であったが10機の爆撃機を撃墜、残りの戦闘機も追い払い(AVG側の損害2機)ミンガラドン及びラングーンの被害を最小限に食い止めた。
[編集] 12月の戦闘と加藤隼戦隊との死闘
12月13日の戦闘の後、日本本土では大本営による放送が行われた。主演者であった東京ローズはラジオ放送でアメリカ人に対し、二日以内に日本軍航空隊による攻撃を予想させる放送を行った。その言葉どおり日本軍航空隊は2日前より一式戦闘機「隼」を含む多くの戦闘機、爆撃機を出撃させてきたのに対しAVGは12機のP-40を出撃させ迎撃に当たった。この戦闘でAVG側は前回の戦闘経験がものを言い合計25機の戦闘機、爆撃機を撃墜しAVG側の損害は皆無だった。これは一式戦闘機を初めて撃墜し、さらには今まで無敗であった飛行第六十四戦隊(通称:加藤隼戦闘隊)を初めて破った記録となった。 1942年に入るといままで守勢であったAVGは一転攻勢に転じ、タイの日本軍基地に対し平均3~4機で奇襲をかける。この奇襲によりかなりの日本軍機が地上にて撃破されたが逆に日本軍ではアメリカ人を意地でも打倒する決意を固めてしまった。
日本軍は首都ラングーンをその後二ヶ月間に渡って爆撃、日本陸軍によりラングーンが陥落するとAVGは北方400kmに位置するマグウェへの撤退作戦を開始した。その間各部隊は交代で防衛に当たったが、同年3月の日本軍による奇襲攻撃によりマグウェ航空基地も壊滅的状態に陥った。このときAVGの残存戦力はわずか20機、パイロットは40名まで打ち減らされていた。しかし1942年の7月までインドから来る補給隊の航空支援を行い続けた。
[編集] AVGフライングタイガースの解散とその後
残存戦力を使い補給線の護衛に徹したがこのころになると物量で押す日本軍を食い止めることはできなくなっていた。ビルマ・ロードも閉鎖され、とうとう補給線はインドからのヒマラヤ山脈越えの輸送「ハンプ越え」しか残っていなかった。
正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日、軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。解散命令を受託したシェンノートは部隊を解散し残存戦力を中国・ビルマ方面に展開するアメリカ軍第10空軍の部隊で編成された中国空軍起動部隊(CATF)に編入させた。この7ヶ月間に生き残ったAVGパイロットのうち僅か5名はシェンノートと共にアメリカ空軍に復帰、そして残りのメンバーは報奨金を受け取り祖国アメリカに帰るものもいれば、現地に残り輸送機パイロットとして働く者もいた。
AVGフライングタイガースの解散の日、蒋介石の夫人である宋美齢はAVGメンバー全員に対し賛辞を送っている。そして彼らを婦人は「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んだ。 AVGは数的に常に劣勢であったにも限らず、敵機撃墜数は当時の空戦史上最高記録を出した。戦闘中32名のパイロットが命を落とし、3名が捕虜となったが最終的に18名のフライングタイガースのメンバーが5機以上を撃墜し、エースパイロットとなった。 AVGの最終戦果は日本軍の航空機を296機撃墜し1000名以上のパイロットを戦死させたとされる。しかしガンカメラも無いこの時代、敵機撃墜に賞金が出たためかAVGパイロットの間では戦果の水増し申告が常であったという説もある。そのためか日本側の記録では被撃墜115機、戦死300名となり違っている。
[編集] 「貨物航空会社 フライング・タイガース」
大戦終結後の1945年に、元フライング・タイガースの搭乗員などにより貨物航空会社であるナショナル・スカイ・ウェイフレイト社が設立され、同社はその後「フライング・タイガース」という社名に改名された。なお、この会社は1990年代まで活動を続け日本にも定期便を乗り入れていたものの、その後フェデラルエクスプレス社に買収され、その名は消えてしまった。