コシュート・ラヨシュ
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コシュート・ラヨシュ(Kossuth Lajos, 1802年9月19日 - 1894年3月20日)は、19世紀ハンガリー王国の政治家、革命家。
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[編集] 生涯
[編集] ウィーン体制下
1802年、Zemplén地方の小さな町モノクで、小さな所領を持ち、弁護士を職業とする下流貴族の長子として生まれた。コシュート家の祖先は13世紀から現在はスロバキアに属するトゥローツ地方に住んでいた。過去の一時期においてコシュート家はスロバキア語を使っていたこともあり、また、度々休暇を共に過ごした叔父Juraj Košútはスロバキアの熱狂的な愛国者であった。しかし、コシュート家の持つスロバキア系の血統は、政治的議論の対象となる事はなかった。というのも、一家はハンガリー王国を構成する貴族の一員であったからである。またラヨシュ自身は自身をハンガリー人だと認識しており、さらに興味深いことには公的にスロバキアの国家としての存在を拒否している。ちなみに母、Karolina Weberはルター派のドイツ系であり、ラヨシュはハンガリー系、スロバキア系、ドイツ系の祖先を持つことになる。
ブダペスト大学で法律を学んだのち、父の跡を継いで故郷で弁護士となり、1825年にはペスト(現在のブダペストの一部)議会の議員となった。1832年から1836年のポジョニ(現在のブラチスラヴァ)国会の機関に発刊していた『議会通信』の内容が、ウィーンの批判を含む急進的な内容であるという理由で発刊が禁止され、1837年に懲役4年の刑を宣告された。(実際は3年で釈放。)しかし、釈放後には『ペスト新報』を発刊し、編集長として徹底した社会改革と完全な民族独立を掲げて国民の間に人気を博し、漸進的改革をとなえるセーチェーニ・イシュトヴァーンから、政治的指導権を奪った。1847年、国会議員に選ばれ、優れた弁舌で急進派をリードした。
[編集] 1848年革命とハンガリー
1848年、パリの二月革命に呼応して、コシュートは封建的特権、農奴制の廃止やウィーンからの独立を議会演説で主張し、多くのマジャル人の支持を集めた。1848年3月のペシュト蜂起は、皇帝フェルディナントの譲歩を引き出し、コシュートも初代のハンガリー内閣(首相バッチャーニュ)のもとで財務大臣に就任し、近代的諸改革が実施された。しかし、革命の中心地であったフランスで六月蜂起(六月暴動)が失敗に終わるなど、各地の自由主義運動が衰退へ向かうと、再びオーストリア政府は強硬策へと転じることになった。クロアティアの軍人イェラチッチを派遣してハンガリーを圧迫した。1849年、劣勢となったコシュートはデブレツェンに拠点を移して抵抗し、正式にハンガリーの独立を宣言した。ハプスブルク家のハンガリー王位を否定して、自らも執政官に就任した。軍勢の巻き返しにも成功し、ブダペシュトの奪回に成功する。
[編集] 革命の挫折と晩年
再び、ハプスブルク家の軍勢が押し寄せたうえ、ロシア帝国がオーストリアを支持したことで危機的状況になり、ブダペシュト包囲を経て街は陥落した。コシュートは8月にオスマン帝国に亡命、その後はイギリス、アメリカ合衆国、フランスへ身を寄せた。その間にカール・マルクス、フランス亡命中にジュゼッペ・マッツィーニと接触があった。その後、1867年にアウスグライヒによってオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、彼はこれを真のハンガリー独立ではないとして受け入れなかった。そのまま祖国に帰国せず、1894年にイタリアのトリノで死去した。
[編集] 参考文献
- 南塚信吾編 『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』 山川出版社、1999年。
- パムレーニ・エルヴィン編 『ハンガリー史1・2(増補版)』 田代文雄・鹿島正裕共訳、恒文社、1980年。
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