コービー・ブライアント
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コービー・ビーン・ブライアント(Kobe Bean Bryant, 1978年8月23日 - )は、アメリカのバスケットボール選手。ポジションはシューティングガード。ペンシルバニア州フィラデルフィア出身。父親は元NBA選手で、現bjリーグ東京アパッチヘッドコーチのジョー「ジェリービーン」・ブライアント、母親は元NBA選手ジョン「チャビー」・コックスの妹パミラ・コックス。彼の名前「Kobe」は、父親が来日した際に食べ気に入った神戸牛の「神戸ステーキハウス」から取ったものである。2001年12月13日神戸大使に委嘱した。
父親がイタリアのプロバスケットボール・リーグへ移籍したため、6歳の時から約7年はイタリアで過ごしている。その為イタリアの習慣が身についており、更に流暢なイタリア語とスペイン語も話すことが出来る。この時期はサッカーに熱中しており、ACミランの大ファンであった。コービーは後に、もしイタリアに住み続けていたらプロのサッカー選手を目指していただろう、と語っているほどである。
1991年にアメリカへ戻ると、高校生活はフィラデルフィアのメーン・ラインで過ごす。この頃からバスケットボール選手として頭角を現し、3年生になると複数のNCAA名門校から勧誘を受けたが、コービーは高校から直接NBA入りすることを決意する。
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[編集] NBAキャリア
1996年のNBAドラフトで、コービーは全体13位でシャーロット・ホーネッツの指名を受けた。しかしドラフト前に行われたワークアウトでコービーの才能を見抜いていた当時レイカーズのゼネラルマネージャーだったジェリー・ウェストがコービー獲得に動く。これにより彼はホーネッツへは入団せず、数週間の内にロサンゼルス・レイカーズにブラデ・ディバッツとの交換でトレードされた(このトレードはシャキール・オニール獲得のためのサラリーキャップ調整のためでもあった)。
プロ1年目の1996-97シーズンは控えとしてプレー、シューティングガードの他にスモールフォワード、ポイントガードもこなしたが出場時間は約15分とまだ少なかった。この年はオールスター戦前夜のスラムダンクコンテストに出場して見事に優勝したが、目新しいダンクが見られなくなったという理由から、この年限りでこのイベントは一旦無くなった。
2年目の1997-98シーズンになるとプレータイムも増え、その才能を発揮し始める。そのプレーはファンの心を掴み、NBAオールスターゲームにファン投票で選出された。また、シーズンの6thマン賞の投票では2位につけた。
3年目の1998-99シーズンには完全に先発として定着し、プレイタイムも大幅に伸びる。しかし、チームは毎年プレイオフで敗退していたため、コービーはシカゴ・ブルズを優勝に導いた名将フィル・ジャクソンの招聘を要求するようになった。
1999-2000シーズン、コービーの希望通りにフィル・ジャクソンがレイカーズのヘッドコーチに就任するとチームは「プレイオフに出られるチーム」から「リーグ屈指の強豪」へと変貌、コービー自身も自他共に認めるスーパースターへと成長した。特にディフェンスが向上し、初のオール・ディフェンシブ1stチーム入りを果たしている。さらに大黒柱シャキール・オニールの活躍もあり、レイカーズは11年ぶりとなるリーグ制覇を達成した。以後2000-01、01-02シーズンと計3シーズンに亘りレイカーズはNBAチャンピオンとなり黄金期を築いた。しかしこの間、チームの主導権を巡りオニールとしばしば衝突するようにもなり、2002-03シーズンには連覇も途絶えてしまう。2003-04シーズンにはコービーとオニールの関係に加え、コービーとジャクソンHCとの関係も悪くなっていた。そこでコービーはオフにFAとなり、この先もオニールをチームの中心に据えるなら、ジャクソンの下でプレーしなければいけないのならば移籍するという意志をちらつかせて球団にエースの座を要求した。球団は結局コービーを選択し、オニールとジャクソンはレイカーズを退団した。コービーはオニールの移籍と同時にレイカーズとの契約書(7年で総額1億3600万ドル)にサインをした。また、カール・マローンもコービーの不満によってチームを去った。
2004-05シーズン、晴れてエースとなったコービーだったが、チームはプレイオフ当落線上で苦戦し、シーズン終盤には既にプレーオフ進出が絶望的となってしまう。チームの低迷に加え、コービーが(自身が追い出したといわれる)フィル・ジャクソンの呼び戻しを要求したことや、チームメートからの不信などにより、コービーへのバッシングが一層強まることとなった。また、一時期はオニールよりも自分のジャージの方が多く売れていると豪語していたが、ファンの視線は明らかにレブロン・ジェームズへと移ってしまっていた。
2005-06シーズン、レイプ問題で示談が成立したことでようやくバスケットボールに集中できるようになりジャクソンHCが復帰すると、レイカーズはプレーオフへと返り咲き、コービー自身も初の得点王となった。このシーズン、彼は3クォーターで62得点やウィルト・チェンバレンの1試合100得点に次ぐ歴代2位の1試合81得点を記録し大きな話題となった。2シーズンぶりにプレーオフにも出場し、屈指の実力者である事を改めて証明。人気も一時期よりは持ち直している。
[編集] レイプ・スキャンダル
ブライアントの若さや容姿、プレイスタイル、成績は彼をNBAで最も人気のある選手の一人としたが、コロラド州のリゾート・ホテルにおけるレイプ・スキャンダルは彼の人気の多くを奪った。ブライアントはスキャンダルの結果マクドナルドとイタリアの菓子メーカー、フェレーロとの契約を失った。
2003年6月30日にコロラド州イーグル郡エドワーズのコロラド・ホテルでフロントデスクとして勤めていた19歳の女性が、同州に膝の治療の為に訪れ、同ホテルに滞在していたブライアントにレイプされたと訴えた。ブライアントは7月17日に逮捕されたが、直ちに保釈された。彼は女性との関係を認めたが、合意の元であると主張した。
裁判はシーズン中にも行われ、彼はその都度コロラドの裁判所に出頭しなければならず、肉体的・精神的消耗が激しい上に練習不足の状態で試合に出なければならないことも度々であった。また、試合中も激しいブーイングに悩まされた。しかし、ブライアントはタフな精神力を見せ集中力を切らすことなくシーズンを終え、まずまずの成績を残した。
女性の証言にも矛盾する点が多々見られ、結局この件は、2005年オフに示談となった。
[編集] コービーとマイケル・ジョーダン
コービーとジョーダンは同じポジション、よく似た体格(同じ身長)、同じようなプレースタイル、共に闘争心旺盛でかなりの負けず嫌いである。これまでに数多くの選手がネクスト・ジョーダンといわれてきたが、コービーは特にそういわれる選手で、比較されることも非常に多い。また、ジョーダンも1998年のオールスターの試合終了後に自分の後継者に指名している。
一方で、フリースローの時の一連の動作、試合中にみせるジェスチャーやガムの噛み方などは、ジョーダンに似ているというよりも形態模写をしているところがある。更に、ジョーダンのハイライト映像の1シーン(空中でブロックショットをかわすダブルクラッチ)を誰もいないところで再現したりする点などが、一部にはジョーダン気取りと捉えられているフシもあり、ネクスト・ジョーダンではなく「ジョーダンのニセモノ」と揶揄されることもある。
ある試合では、ケガをした足を引きずりながらプレーしているところを相手チームのスコッティ・ピッペンに「ジョーダンにでもなったつもりか」と批判されたこともあるほどである(ピッペンにはコービーの様子が1997年にカゼで苦しみながら38得点したジョーダンの姿を真似しているようにみえた)。
[編集] その他
- 当初の登録は201cmだったが、ジョーダンが現役復帰した頃から198cmに変更した。
- 2001年4月18日にヴァネッサ・コーネジョ・ウブリエタ・ラインとカリフォルニア州ダナ・ポイントで結婚した。父ジョー・ブライアントはその結婚に反対し、コービーは親子の関係を絶たれている。2003年1月19日には長女ナタリアが誕生。
- 2006年の世界選手権にはアメリカ代表として来日する予定だったが、膝の手術のため辞退した。
- 2006-07シーズンから背番号を、プロ入り当初からつけていた8から、24へ変更した。もともと24は入団時に希望した番号だったが、既にフレッド・ロバーツがつけていたため断念、更に第2希望の33もカリーム・アブドゥル=ジャバーの永久欠番だったために8を選んだという経緯がある。24は高校時代最初につけていた番号、33は高校時代に父がプロでつけていたことで24から変更した番号、8はイタリアに住んでいた頃にお気に入りだったイタリアリーグの選手、マイク・ダントーニ(現フェニックス・サンズヘッドコーチ)の番号。
[編集] タイトル、記録など
[編集] タイトル
- NBAチャンピオン:2000, 2001, 2002
- 得点王(1試合平均):2006(35.4)
- 年間最多得点:2003 (2,461), 2006 (2,832)
- 年間最多フィールドゴール成功:2003 (868), 2006 (978)
- 年間最多フィールドゴール試投:2006 (2,173)
- 年間最多フリースロー成功:2006 (696)
[編集] 受賞歴
- オールNBA
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- 1stチーム:2002, 2003, 2004, 2006
- 2ndチーム:2000, 2001
- 3rdチーム:1999, 2005
- オールNBAディフェンシブ
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- 1stチーム:2000, 2003, 2004, 2006
- 2ndチーム:2001, 2002
- オールスターMVP:2002, 2007
- オールルーキー2ndチーム:1997
- スラムダンク・コンテスト優勝:1997
[編集] 記録
NBA記録
- 1試合最多3Pシュート成功:12 (ドニエル・マーシャルと並ぶタイ記録)
- ハーフ最多3Pシュート成功:8 (他5名と並ぶタイ記録)
- 1試合での3Pシュート連続成功数:9(ラトレル・スプリーウェル、ベン・ゴードンと並ぶタイ記録)
- 1クォーター最多フリースロー成功:14(他5名と並ぶタイ記録)
- 1クォーター最多フリースロー試投:16(他6名と並ぶタイ記録)
- オールスター通算最多3Pシュート成功:11(他3名と並ぶタイ記録)
- 自軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:66.4%(122得点中81得点)
- 両軍の1試合総得点における自身の得点の割合※:35.8%(226得点中81得点)
- ※ショットクロック導入後
チーム記録(レイカーズ)
- 最多得点
-
- 年間:2,832(NBA歴代7位)
- 1試合:81(NBA歴代2位)
- ハーフ:55
- クォーター:30
- プレーオフ・オーバータイム:12
- 月間1試合平均:43.4
- 1シーズンで40得点以上を記録した回数:27
- 40得点以上を記録した連続試合数:9
- 1シーズンで20得点以上を記録した連続試合数:62
- 最多フィールドゴール成功
-
- ハーフ:18
- クォーター:11
- ハーフ最多フィールドゴール試投:28(エルジン・ベイラーとタイ記録)
- 最多フリースロー成功
-
- 1試合:23(2度)
- ハーフ:16
- クォーター:14
- プレーオフ・クォーター:11(他3名と並ぶタイ記録)
- 連続:62
- 最多フリースロー試投:16
- 最多3Pシュート成功
-
- 通算:799
- 1試合:12
- ハーフ:8
- クォーター:6
- 1試合(ノーミスで):7
- 連続:9
- 最多3Pシュート試投
-
- 通算:2,379
- プレーオフ通算:410
- 1シーズン:518
- 1試合:18
- 最多スティール
-
- ハーフ:6(他3名と並ぶタイ記録)
- プレーオフ・クォーター:3(他6名と並ぶタイ記録)
[編集] その他の業績
- 1試合で80得点以上を記録した史上2人のうちの1人
- 2006年1月22日に記録した81得点はNBA歴代2位
- 史上2人しかいない、13試合連続で35得点以上を記録した1人
- 史上3人しかいない、9試合連続で40得点以上を記録した1人
- 史上3人しかいない、4試合連続で45得点以上を記録した1人
- 史上3人しかいない、月間で1試合平均40得点以上を記録した1人
- 史上2人しかいない、月間で1試合平均40得点以上を3度記録した1人
- 1シーズンに2,800得点・3Pシュート成功数180を記録した史上唯一の選手
- 史上4人しかいない、1試合40分以下の出場時間で60得点以上を記録した1人
- 史上最年少
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- 先発出場:18歳と158日
- オールスター先発出場:19歳と175日
- スラムダンクコンテスト優勝:18歳と175日
- 通算得点到達
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- 10,000:24歳と193日
- 14,000:26歳と240日
- 15,000:27歳と136日
- 16,000:27歳と192日
- 17,000:28歳と86日
- 19,000:28歳と223日
[編集] 記録に関するその他
- 40得点の連続試合記録がかかった試合では接戦となった終盤に記録の為に無理なシュートを連発して非難を浴びたが、目の前に記録があれば狙うのは当然と反論した。
- トリプルダブルを記録したいが為に自らがシュートするべき場面で無意味なパスを連発して非難を浴びたことがある。
- 得点に関する最年少記録はレブロン・ジェームズが次々と塗り替えている。
- レブロンが記録を塗り替えた直後にカーメロ・アンソニーもコービーの記録を抜いている。
- 81得点を記録した試合はプロ通算666試合目で、打ったシュートの本数は合計66本である。