シュザンヌ・ヴァラドン
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シュザンヌ・ヴァラドン (Suzanne Valadon, 1865年9月23日 - 1938年4月7日) はフランス、モンマルトルの画家。画家になる前は、著名な画家のモデルでもあった。本名はマリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(Marie-Clémentine Valadon) 。画家モーリス・ユトリロの母である。
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[編集] 生涯
ヴァラドンは、オート=ヴィエンヌ県ベッシーヌ=シュル=ガルタンプで貧しい洗濯女の私生児として生まれた。1870年に母マドレーヌとともにパリへ移り住み、10代の初めから様々な職に就いた。一時期、あこがれていたサーカスのブランコ乗りになるが、ブランコから落ちて負傷しブランコに乗れなくなったため、10代後半で絵画モデルになる。 ルノワールの「ブージヴァルの舞踏会」、「都会のダンス」(オルセー美術館蔵)、パリ大学大講堂にあるシャヴァンヌ作「聖なる森」、ロートレックの「二日酔い」は、ヴァラドンがモデルである。当世一流の画家たちの仕事に接することによって、彼女もまた画家を目指すようになった。
18歳の時、息子モーリスを生む。実父が誰かはわかっていない。1886年頃からヴァラドンと同棲していたロートレックは彼女の正確で力強いデッサンを評価し、画家への道を開いた。その後、デッサンを多数購入し、彼女を庇護したエドガー・ドガのもとで油彩と版画を学ぶ。1893年、エリック・サティと交際したが半年で破局。1894年ドガのすすめでサロンにデッサンを出品、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール女性初の会員になる。1896年、資産家のポール・ムージスと結婚。1909年、息子より3歳年下の画家志望の青年アンドレ・ユッテルを恋人にし、ムージスとは離婚。ユッテルをモデルにした「アダムとイブ」、「網を打つ人」(アンデパンダン展に出品)など彼女の代表作となる作品を次々に製作した。1914年ユッテルと正式に結婚。1920年サロン・ドートンヌの会員になる。1932年パリ最大のプティ・ジョルジュ画廊で大回顧展が開催され、フランスの首相エドワール・エリオがそのカタログに序文を寄せる。1937年、彼女の主要作品がフランス政府によって買い上げられ、後にパリ国立近代美術館に所蔵される。1938年、自宅で倒れているところを隣人に発見され、病院へ搬送中に脳充血で死去。
人物をほとんど描かなかったユトリロとは対照的に、ヴァラドンの作品の主題はほとんどが人物であり、高いデッサン力に支えられた太い簡潔な線は、対象の特徴を容赦なく捉え力強い。ヴァラドンはユトリロが画家として成功するまで、息子に絵画の才能があるとは思っておらず、また息子も母から絵画を学ぶことはなかったため、互いに影響を受けることなく、独自の画風を確立している。
[編集] 代表作
- アダムとイヴ(1909年、ポンピドゥー・センター)
- 網を打つ人(1914年、ポンピドゥー・センター)
- 青い部屋(1923年、ポンピドゥー・センター)
[編集] 参考文献
- 『25人の画家 第15巻ユトリロ』千足伸行編著、高階秀爾監修、講談社、1980年(69-70頁にヴァラドンの作品の図版、127頁に解説がある)。