ジョゼフ・ボナンノ
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ジョゼフ・ボナンノ(Joseph Bonanno, 1905年1月18日-2002年5月11日)は、米国のイタリア系犯罪組織コーサ・ノストラの幹部で、ニューヨークの五大ファミリーのひとつのボナンノ一家の創設者。本名ジュゼッペ・ボナンノ(Giuseppe Bonanno)。ジョー・バナナというあだ名で呼ばれていたが、彼自身はこの呼び名を嫌っていた。
作家ゲイ・タリーズの名著「汝の父を敬え」のモデルである。
シチリア島のカステラマレ・デル・ゴルフォ出身。ボナンノ家は、その土地で何世紀もの歴史を持つ名門で、祖父のジョゼッペ・ボナンノはイタリア統一運動の闘士として働いたガリバルディの支持者であり盟友である。ゴッドファーザー(名付け親)はボナンノが生まれた時に、ボナンノ家と争いをしていたブチェラート一族のドンのフェリチェ・ブチェラートで、そのことが争いの和解になった。1906年、アメリカに移住したが、他のギャングと商売をめぐって対立したために1911年に一旦帰国し、翌年パレルモの商船大学に入学。ムッソリーニのファシスト政策に馴染めなかったボナンノは、1925年、再度アメリカに移住してニューヨークに定住するようになった。
- ボナンノは政治的理由からファシスト党に反対した訳ではない。単にその強力なマフィア取締から逃れるためアメリカに再入国したに過ぎない。
若い頃ブルックリンで、あるとき地元の大物がボナンノの密造の仕事を横取りしようとした。それが事件となりボナンノはその大物を脅しあげた。そのことを大物ボスサルヴァトーレ・マランツァーノは脅しに屈しない勇気だと絶賛し、それからマランツァーノの側近になった。マランツァーノと親交を結んでアメリカでのコーサ・ノストラの組織統一に協力する。
1931年4月にジョー・マッセリアが殺害されてカステラマレーセ戦争が終わり、5月にシカゴで行なわれれた暗黒街の集まりにマランツァーノに同行し参加した。そこではじめて会うアル・カポネのことを「カポネは気前のいいホストで、全員の宿泊代を持ち、食事と酒と女を用意し、滞在中は警察に手出しをさせないという保障を与えてくれた。彼について恐ろしい噂を聞いていたが、実際会ってみると楽しい男だった」と語っている。
その後、ラッキー・ルチアーノによってマランツァーノが殺されると、ルチアーノ主導の組織改革に協力してマランツァーノの組織を受け継いでボナンノ一家を興した。
ボナンノはニューヨークで衣料と運輸の仕事を経営してウィスコンシン州とカナダにチーズ工場を持って西部でもさまざまな事業を展開していた。部下たちには無理に上納金を強制しなかった。もし提出しなくても圧力をかけたりはしなかったという。麻薬ビジネスと売春業には反対していた。そのため、自分の一家のグループ・リーダーのカーマイン・"リロ"・ギャランテが麻薬密輸をしているのを知ったときは失望していた。
- ボナンノはシチリアで行われたアメリカのコーサ・ノストラとシシリアン・マフィアとのヘロインのアメリカへの密輸に関する会議にルチアーノ、ギャランテらと共に出席していたとされる。一般にマフィアのボスは表向きは麻薬取引を禁じていても分け前がちゃんと上納されれば目をつぶるケースが多かった。ボスともなればその気になれば力で部下が麻薬取引にかかわるのを押さえ込むことはできたし、現にそうしたボスもいる(ポール・カステラーノなど)。またシカゴのトニー・アッカルドは麻薬取引を禁ずる代わりに部下に補償金を支給していた。
アルバート・アナスタシアが暗殺された後、ボスにカルロ・ガンビーノを推した。その理由は、ガンビーノが弱くて、誰の脅威にもならないと見ていたからだった。その当時ヴィト・ジェノヴェーゼとトーマス・ルッケーゼに目をかけられていたにもかかわらず、リーダーとしての資質がまったくなかった。自分より力のある人間にひたすらまとわりついて媚っていたから、ボナンノは彼のことを女々しいやつと呼んでいた。
- 実際にはガンビーノの一家はNY最大最強の一家に成長し、ボスの座を追われたボナンノとは対照的に数少ない真のゴッドファーザーになった。
1957年11月にアパラチンで行われた会議には事前に情報を知り行くのを止めた。しかし、グループ・リーダーのガスパー・ディグレゴリオがボナンノの運転免許証(ボナンノから免許の更新の手続きを頼まれていた)を持っていて、ディグレゴリオが警察に捕まりジョゼフ・ボナンノとマフィアの関係が暴露されてしまった。ボナンノはアパラチンには行ってないと言っているが元保安官代理のビンセント・バシスコは森に逃げた一人で最初に尋問したのはジョゼフ・ボナンノだと言っている。
ボナンノは30年以上もボスであったが、1957年のフランク・コステロの引退とアルバート・アナスタシアの暗殺、1959年のヴィト・ジェノヴェーゼの収監を経てニューヨーク・マフィアの実権を握ったトーマス・ルッケーゼ、カルロ・ガンビーノ、更には実のいとこでもあるステファノ・マガディーノらと対立するようになり、彼らの支持する一派により一家内は分裂抗争状態となった。このとき、ボナンノ一家からマガディーノのファミリーにメンバーが流れていき、ボナンノ一家はひところの400人から200人かそれ以下になっていた。
- この抗争の原因とされるストーリーはいくつかある(真実は分からないであろう)。もっとも代表的なのはボナンノがプロファチ一家のボスのジョゼフ・マリオッコと組んでルッケーゼ、ガンビーノらの抹殺を図ったがこの計画が洩れて、マリオッコは責任を取って引退に同意したもののボナンノは抵抗したからだというものである。またボナンノがマガディーノの同意なしにカナダに進出を図ったことや、オープンテリトリーとされたアリゾナから西海岸に勢力を伸ばそうとしたことが各地の一家の反発を呼んだと言う見方もある。ボナンノ自身はルッケーゼとガンビーノの陰謀だとしている。
この抗争のさなか、1964年10月に自分の弁護士の目の前で誘拐される。翌日の新聞には「ジョゼフ・ボナンノ、ギャングに誘拐される…彼は死んだものだと思われる」と書かれた。しかし、実際には従兄弟のステファノ・マガディーノと主導権争いについて話し合いをしていた。マガディーノはボナンノに対する不満を言う。6週間の話し合いの後、ボナンノは無事に解放された。
抗争は長期にわたって続いたが、ボナンノはコミッションに平和を維持したいと言い、生命の保証を条件に一家のボスの座を下りて息子のビル・ボナンノと一緒に引退した。このときに、カルロ・ガンビーノ、スティーヴン・ラサッラ、ジョー・コロンボ、カーマイン・"グリッブス"・トラムンティと恨みを持たず報復行為を行わない、と話し合いをした。その後、アリゾナ州ツーソンに移り住んだ。心臓発作のため入院していた病院に脅迫が電話で届いたり、脅迫状が何通も届いた。自宅に爆弾も仕掛けられたりもしたが、無事に2002年5月11日まで生きた。
97歳まで生きたボナンノは、犯罪組織の生きた化石のような人物であったため、その人生が著作化されたりドラマ化されたりした。また、自叙伝"Man of Honor"を著したが、内容にはかなりの誇張や虚偽があると批判されている。
アル・パチーノ主演の「フェイク」で、FBI捜査官のジョー・ピストーネによる、ドニー・ブラスコ作戦で大量検挙の的になったのはかつてのボナンノ一家である。ボスの委譲は、フィリップ・ラステリ、カーマイン・"リロ"・ギャランテ、そして現在のジョー・"ビッグ・ジョーイ"・マッシーノと続いている。
[編集] 関連書物
- 『ゴッドファーザー伝説―ジョゼフ・ボナーノ一代記』、ビル・ボナンノ著、戸田裕之翻訳、集英社、ISBN 4087733629
[編集] 外部リンク
- Joseph "Joey Bananas" Bonanno - Find A Grave