ジョージ・シュルツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョージ・プラット・シュルツ(George Pratt Shultz, 1920年12月13日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。ニクソン政権の労働長官、財務長官、レーガン政権の国務長官を歴任した。
目次 |
[編集] 生涯
シュルツは1942年にプリンストン大学で経済学の学位を得る。同年海兵隊に入隊し、1945年まで軍務に就き大尉まで昇進した。その後1949年にはマサチューセッツ工科大学から産業経済学の博士号を得る。彼はマサチューセッツ工科大学の経済学部および同大のスローン経営大学院で1948年から1957年まで教鞭を執り、1955年にはアイゼンハワー大統領の経済諮問委員会の委員に就任した。1957年には労働関係学の教授としてシカゴ大学のビジネス大学院に加わり、その後1962年に学部長に就任した。
シュルツは1969年から1970年までリチャード・ニクソン大統領の下で労働長官を務めた。その後彼は行政管理予算局局長に就任し、1972年5月から1974年5月まで財務長官を務めた。この期間中に、ポール・ボルカーおよびアーサー・バーンズと共に金本位制とブレトン・ウッズ体制の終了を決定した[1]。
[編集] 国務長官時代
1974年、シュルツは政府を離れ、ベクテル社の社長に就任した。その後1982年7月16日、シュルツはレーガン大統領から第60代アメリカ合衆国国務長官に指名された。シュルツはタカ派が多数派を占めるレーガン政権において穏和な外交政策を主張し、しばしば対立した。シュルツはイラン・コントラ事件における「人質のための武器」問題に対して反対意見を述べたことで合衆国世論の大きな注目を集めた。シュルツはニカラグアへの侵攻に積極的な立場をとり、1983年には議会において「我々はニカラグアの癌を切除しなければならない」と証言した。また1985年にニカラグア大統領に就任したダニエル・オルテガとの政府間交渉に反対し、「交渉のテーブルの上に強制力の影がちらつかないのであれば、『交渉』という言葉は『降伏』を遠回しに表現しているに過ぎない」と述べた。そして国際連合や世界法廷といった外部の仲介による「理想的・法的」解決を提唱して「方程式における力の項」を無視する人々を、厳しく批判した。
[編集] 晩年
1989年1月20日、シュルツは国務長官を辞任した。しかしながら引き続き共和党の政治参謀として活動した。その一方でシュルツはドラッグの合法化を主張する共和党員の急先鋒となり、多くの保守派の党員を驚かせた。そして1998年6月8日にはニューヨーク・タイムズ紙に「今日、世界的規模によるドラッグとの戦いが、薬物乱用よりも多くの問題を引き起こしているだろう」という広告を、署名つきで掲載した。
2000年の大統領選挙ではジョージ・ウォーカー・ブッシュの選挙参謀を務め、その後ディック・チェイニー、ポール・ウォルフォウィッツ、コンドリーザ・ライスらが所属するブッシュの政策顧問団「バルカンズ」では上級顧問も務めた。
[編集] 参考文献
[編集] 外部リンク
- Bio at the Hoover Institution
- U.S. Department of Labor Biography
- Secretaries of the Treasury - George P. Shultz - アメリカ合衆国財務省の公式サイト[1]内の、シュルツの紹介ページ(英語)
|
|
|
|
|
|
カテゴリ: アメリカ合衆国労働長官 | アメリカ合衆国財務長官 | アメリカ合衆国国務長官 | 1920年生