ストロング小林
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ストロング小林(-こばやし、1940年12月25日-)は、日本の元プロレスラー、俳優、タレント。本名:小林 省三(こばやし しょうぞう)。プロレスラーとしての全盛時のリングネームはストロング小林だが、俳優・タレントに転じてからの芸名ストロング金剛(-こんごう)の方が通りが良くなっている。東京都青梅市出身。188センチ、125キロ(全盛時)。スキンヘッドが特徴。
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[編集] 経歴
[編集] 国際プロレス時代
東京都立農林高等学校卒業後、国鉄に就職。その傍らボディビルに打ち込み、コンテストに参加した会場で国際プロレス社長吉原功にスカウトされ、団体旗揚げ間近の1966年12月に入門。翌年7月、「覆面太郎」というマスクマンとしてデビュー。日本でデビューした覆面レスラー第1号となる。
1968年1月に素顔になり、10月には海外修行へ出発。その後何度も帰国と遠征を繰り返す中で実力をあげ、パリでのIWA世界タッグ王座奪取(1969年5月、パートナーは豊登、相手はジャイアント・ロシモフ〈後のアンドレ・ザ・ジャイアント〉、イワン・ストコロフ組)、アメリカミネソタ州でのIWAヘビー級王座戴冠(1971年6月19日、対ビル・ミラー)、1972年IWAワールドシリーズ優勝(決勝の相手はモンスター・ロシモフ、後のアンドレ)などの輝かしい実績を残し、国際プロレスのエースに君臨する。IWAヘビー級王座は前述の獲得から1973年11月まで2年6ヶ月保持、25回の防衛を記録している。
[編集] 新日本プロレス参戦後
順調に国際の屋台骨として活躍していた矢先の1974年2月、小林はアントニオ猪木への挑戦を表明して団体を離れる。小林が自己主張が得意でない性格であったことから、後年この事件は新日本プロレスの選手引き抜きであったと目されているが、小林自身は「グレート草津らをエースに立てようとするフロントとの意見の対立が元々背景にあり、以前から離脱を考えていた」としてこれを否定している。またこの時小林に対し国際プロレス側が移籍金の支払を要求するというトラブルが発生したが東京スポーツが仲介に入り、一時的に小林は東京スポーツ新聞社所属のレスラーとなる。
同年3月19日、蔵前国技館において猪木とNWF世界ヘビー級王座をかけて激突。団体エース同士の戦いであり、この時期には日本人同士が本格的に争う図式が定着していなかったため、大きな話題を呼んだ。結果は猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れる。なおこのときのジャーマンは猪木がブリッジの際に首だけで二人分の体重を支え、猪木のレスラー人生の中で最も危険かつ美しい角度で決まったといわれている。同年12月同じく蔵前国技館で再戦が行われたがまたもや敗れ、海外遠征を経て1975年5月、新日本に正式入団する。
その後は坂口征二とタッグを組み、1976年2月に北米タッグ王座を獲得。以後3年2ヶ月に渡り防衛。新日本プロレスにおいて、猪木、坂口に次ぐ存在感をもったレスラーとして人気を博した。当時のキャッチフレーズは「怒濤の怪力」。
1981年腰痛を理由にセミリタイア状態となり、俳優・タレントとしての活動が目立つようになった。映画「伊賀忍法帖」(1982年)出演時、役名が「金剛坊」であったことをきっかけに「ストロング金剛」に改名。プロレスラーとしては1984年8月に正式引退する。以後は完全に芸能界に転身した。特に「風雲!たけし城」での怪人役は有名。愛嬌のあるキャラクターでお茶の間、子供に親しまれる。
最近は再び腰を痛めたこともあり表舞台に姿を見せる機会は減ったが、肌のつやはよく元気だそうである。
[編集] 得意技
外国人選手に力負けしないパワーファイターとして知られていた。バックブリーカー系の技を多用したため、後年は腰痛に悩まされるようになる。
- カナディアンバックブリーカー
- アトミックドロップ
- ベアハッグ
- ダイビングボディプレス…トップロープからダイブする形でなく、走りこんでプレスする形。大きな体をめいっぱい伸ばして舞い降りるフォームには定評があった。
[編集] 特記
- 国際プロ離脱→新日本参戦という事件は、その後の日本プロレス史に大きな影響を及ぼした。小林の離脱がきっかけで国際は迷走をはじめ、果ては倒産を迎えることになる(小林が2度にわたって猪木に敗れたことも、国際のイメージダウンに加担してしまった)。また猪木-小林戦は史上初の日本人トップレスラー同士の対戦となり(力道山-木村政彦戦以来、久々という言い方も出来る)、興行の目玉が日本人と外国人の戦いから、日本人レスラー同士の戦いにシフトするきっかけともなった。また1974年3月の一戦は東京スポーツ認定プロレス大賞「ベストバウト賞」の第1回受賞試合となっている。
- 一部資料には1944年1月15日生まれ、という説明があるが、これは覆面太郎としての仮のプロフィールであり、実際は冒頭表記の出生日である。
- 顔の特徴など、猪木と風貌がよく似ており、「ニセ兄弟タッグ」として海外遠征を行うという案もあったらしい。
- ビートたけし出演のバラエティー番組で、事前の打ち合わせもないまま落とし穴に落ちた事で怪我をしてしまい、プロレス時代から悩んでいた腰痛もあって、後遺症に苦しんでいたと言われる。一説に、責任を感じたビートたけしが経済的なサポートをしたという話もあるが、真偽は不明。
- ゲイとの噂が長年根強く囁かれている。若き日の武藤敬司ら複数の新日本プロレスの若手が小林に迫られて困惑したといわれる。スタン・ハンセンは著書「魂のラリアット」の中で、
- 「小林は技はボディ・スラムだけは容易にかけさせてくれた、そのときに股間を握るクセがある、あまり強く叩きつけると次からは股間を強く握ってくる、人間誰しも股間を握られると力が抜けるものでそういう意味では理にかなって(?)いる」(抜粋)
と記した。ハンセンの証言が小林がゲイであるかどうかの証拠とはなりえないが、試合中に相手の股間を握っていたという事実はあったようである。