セプティミウス・セウェルス
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
ルキウス・セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus, 146年4月11日 - 211年2月4日)は、ローマ帝国の皇帝(193年4月9日-211年)、セウェルス朝最初の皇帝にしてアフリカ出身初のローマ皇帝として知られる。
[編集] 略歴
北アフリカのカルタゴ近郊のエクィテス階級の家庭に生まれる。父方の家系はフェニキア人の血を受け継いでいるためフェニキア訛りでラテン語を話したと言う。父親の事はあまりよくは分かっていない。父親は政治的な経歴を持たなかったが、アントニウス・ピウスの治世に従兄弟でコンスルを務めた人物が2人いた。母方の家系はイタリアから北アフリカに越してきたローマ人であった。
172年、マルクス・アウレリウスの治世のもと元老院入りをする。190年にはコンスルに就任、次のコンモドゥスの治世にはパンノニアに赴任する。ペルティナクスが殺害されると皇帝を名乗り、イタリアへと急行する。ディディウス・ユリアヌスは元老院から死刑宣告を受けて殺され、結果としてローマ皇帝の帝位に就いた。
セウェルスは5人の皇帝が乱立するローマ帝国を再統合しコンモドゥス帝謀殺以来の内乱状態を終わらせ秩序を回復した。さらに混乱に乗じてローマ東方領に侵入していたパルティア王・ヴォロガセス5世の軍を破り首都クテシフォンまで占領し名実ともにローマ帝国の威信を回復した。211年の死去後、元老院により神格化され、2人の息子、カラカラとゲタは妻ユリア・ドムナの助力により皇帝となった。
[編集] セウェルス帝の功罪
セウェルス帝は軍人出身の皇帝であっただけに給料の上昇など兵士の待遇の改善に努め、彼の時代のローマ軍団は周辺諸国を圧倒する質を誇っていた。しかし、パルティア遠征と属州メソポタミアの獲得は当時勃興中のササン朝ペルシア帝国を活気付ける原因となり、また軍団の待遇改善は兵士の退役を抑制する結果となり、これも帝国の財政を悪化させた。セウェルス帝はローマの威信を回復させた一方で後に三世紀の危機と呼ばれるローマの混乱の原因を生み出した。
また、息子を哲人皇帝として人気の高かったマルクス・アウレリウス帝の養子とするために、暴虐帝と呼ばれたコンモドゥスの記録抹殺刑を撤回させ、アウレリウス家の知遇を得ようとした。
[編集] ギャラリー
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