セリム2世
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セリム2世(1524年5月28日-1574年12月12日)は、オスマン帝国の第11代スルタン(在位: 1566年-1574年)。第10代スルタン・スレイマン1世(大帝)の子。
1566年、父・スレイマン1世がハンガリー遠征中に陣没したため、父の晩年における政争で唯一生き残っていたセリム2世が、その後を継いでスルタンとして即位した。しかし軍事においても政治においても優秀であったスレイマン1世と較べるとまではいかなくても、彼は酒に溺れる無能な人物で、『泥酔者』とまで蔑まれた。だが、無能なセリム2世に代わって名宰相であるソコルル・メフメト・パシャが政治を取り仕切ったため、国内政治が乱れることは無かった。
しかし、大帝と恐れられた父の死と、無能なセリム2世が後を継いだことは、ヨーロッパ諸国に大きな反攻の契機を与えた。それが1571年、オスマン海軍がコリント湾内でスペインの艦隊に大敗するという結果で現れたのである(レパントの海戦)。このとき、セリム2世は「この敗戦など痛くも痒くもない。異教徒が我が国の髭を焼いたに過ぎぬ」とうそぶいたと言われているが、確かにその後も帝国の大国としての勢威や、ヨーロッパ諸国に対する優位は揺るがなかった。また地中海の制海権も17世紀まで維持し続けた。オスマン艦隊はただちに再建され、1573年にヴェネツィアからキプロス島、1574年にはチュニスを割譲したほどである。しかしこの海戦の敗退は、オスマン帝国の動揺を現す端緒になったのも確かであった。スレイマン1世の後、有能なスルタンは殆ど現われなくなり、後の帝国衰退の原因もこのセリム2世の時代に始まったとも言える。父スレイマン1世は、無能なセリムが後継者になることを一番恐れていたが、危惧は現実に帰したのである。この後、帝国の政治は大宰相と官僚に握られ、スルタンの権威は地に落ち、帝位は飾り物と化した。しかしスルタンは暗愚で無能であったが、優れた大宰相と官僚のお陰で、オスマン帝国の繁栄と安定は、なお1世紀近くも継続するのである。
1574年、51歳で死去。後を子のムラト3世が継いだ。
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